以前、『哲学の教科書』で「独我論協会」を可能であると論証した中島博士ですが、拙僧がたまたま購入した『文學界』(2005年10月号)で、「単独者協会は可能か?」というエッセーを書いております。
その前に、「独我論協会」について中島博士の説明を説明しますと、要するに「他人には心が全くない」という立場の人が、その信念を保持したままで互いに付き合うときにどうなるか?という話です。まぁ、一応申し上げれば「私」という事態が同型性をもって成立する場合という時のようですが、『哲学の教科書』では以下のように述べられています。
独我論がもし「私」の同型性を伴って登場してきますと、大変おかしな世界が開かれてきます。例えば「日本独我論協会」は充分結成されうる。学会の席で協会員は情熱を込めて数百人の聴衆に向かって「私しか存在しない」ことを発表し、会場からは「それでは、私しか存在しないとは言えないではないか」と反論があがり、発表者は「いえ、私が申し上げたいのは……」と答え、さらに白熱した討論が続き、その後の懇親会ではにこにこビールを注ぎ合いながら、お互いに「私しか存在しない」ことを確認し合い満足して帰宅するというわけです。
中島博士前掲同著、192頁
なるほど、かなりおかしな世界ですが成立できるかもしれません。結局他人の心が有るか無いかという極限の問いに対しては、結論を実証的に出すことは出来ず、信念の世界になってしまいます。そこで、中島博士も独我論協会はホドホドにして、「単独者協会」の話をしていきます。
中島博士の「単独者」の定義とは、基本的にキルケゴールの言葉であるにもかかわらず、それをちょっと変えて、「他人との共同作業は何でも厭わしく、他人に共感する能力がほぼ完全に欠如しており、他人が自分の領域に入ってくることを無性に恐れる」存在であるとしておりますが、これなどまさに中島博士そのものです。つまり、仕事は出来るが他人には迎合せず、仕事に関してであっても人間関係を円滑に築くことは出来ないのです。
そして、中島博士はこの単独者に対して世の人は、協調性や共感などを振りかざして追い込んでいくとしており、明確にこういった追い込みについて「残酷なことだ」としております。単独者は、こういった暴挙によって自滅しないためにも団結しなくてはならず、結果として誕生するのが「単独者協会」なのです。
世の中は大多数が非単独者であり、自分を守るためとはいえ彼らに従わざるを得ない単独者は、そんなことばかりしていたら心が汚れてしまうため、翌日からも単独者として生き抜く勇気を補給する場所が必要だとしております。
しかし、よくよく考えてみるとこれはおかしい。何故ならば、幾ら団結するとはいえこんな「協会」を作ったら、そこに集まっただけで、非単独者になるような気がします。現に中島博士も「単独者に向かって、この協会への参加をわずかにでも強制することは、単独者の定義に反する」としており、「誰にも共感しないという理念を標榜したとたんに、この理念に共感する人を集めることになる」としております・・・仰るとおりですね。
結果として、誰にも共感しないという理念を持って協会を設立しても、協会の理念に共感した人は、他人への共感をしない人たちですから、その矛盾の渦中で心を引き裂かれることになるでしょう。入ったら直ちに出るということになりかねないのです。つまり、この協会は作ったら、その理念によって崩壊しなくてはならず、中島博士がいうには「公的な、すなわち普遍的で公正中立な単独者協会はありえない」としていることからも、極めて私的な活動に終始することでしょう。
・・・一応本ログの論題で「単独者協会に入りたいか?」なんて書いてみましたが、入るべき単独者協会なんてありえないじゃん
なぁんかイマイチな結論で終わっちまいました。。。
返す返すも、こんな一般人にはどうでも良いことを本気(?)で考えてしまう中島博士って……
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