大論に云く。外道有り、論力と名づく。自ら謂うに、論議と等しかる者無し。其の力、最大なるが故に論力と云う。五百の梨昌の募を受けて、五百の明難を撰し、来たりて世尊を難ぜんとす。仏の所に来至して仏に問うて云く「一を究竟の道と為すや、衆多を究竟道と為すや」。仏言く「唯だ、一を究竟道とするのみ」。論力言く「我等諸師には、各々究竟道有り」。外道の中に各々、自ら是を謂い、他人の法を毀誉して、互いの相を是非するを以ての故に多くの道、有り。
世尊、其の時、已に鹿頭を化す、無学果を成じ、仏の辺りに在りて立つ。
仏、論力に問う「衆多の道中、誰をか第一と為さん」。論力云く「鹿頭、第一なり」。仏言く「其れを若し、第一と云うは、何ぞ其の道を捨てて我が弟子と為って、我が道中に入らん」。論力、見るに、已に慚愧低頭して帰依し、道に入る。
『止観輔行伝弘決』巻10-1
大論というのは、『大智度論』第29のことです。採り上げるなら、そちらでも良かったのですが、やや中国訳の表現が分かりにくかったので、こちらにしてみました。そこで、このお話しですが、何にも増して、「論議」こそが全てを決定するという考え方があるというのです。「論議」というのは、どうにも「議論」の文字が逆さまになっているものの、同じような意味かな?と思う人がいるかもしれません。まぁ、実際の意味として、「問答議論によって経論の意味を明らかにすること」(岩波『仏教辞典第二版』)とされていますので、別にどっちでも良いとは思います。ただ、仏教には仏典を解説する「論」というのがありますので、その関係で「論議(解釈を議する)」ということです。
さて、利昌というのは王族らしいのですが、この者達から雇われて、論力が仏陀を論難しにやって来ます。その際に500問の問答を考えてきたというのです。おそるべき想定問答集。そして、とりあえずお手並み拝見的な一問を出すのでしょう。それは「究極の教えとは1つなのか?多いのか?」というものです。それに対して、釈尊は「1つだ」と答えます。しかし、論力はその答えを認めようとせずに、自分たち諸師は、それぞれに信じる教えをぶつけ合うことで、他人と争うことがあったようで、このことから論力は、究極の教えを1つだと認めようとはしないのです。
しかし、釈尊はここに、議論の転換点を見出します。それは、そのように争っているならば、その争いでもっとも強い者は誰だと問うわけです。論力は勇んで「鹿頭」という諸師を挙げて反論しようとするのですが、なんという仏の威神力。釈尊は、その問答に入る前に、すでにこの「鹿頭」を自らの教えによって弟子にしてしまっていたのでした。つまり、論力が、最も優れていると指摘した者が、すでに釈尊の弟子だったというのです。『大智度論』では、この「鹿頭」が、問答を行っている釈尊を扇いで差し上げていたという記述すらあります。
これでは、論力が勝つはずがありません。論力は、非常に恥じ入るところがあって、頭を下げて釈尊の教えに帰依したと言うことです。なんだ、結局「釈尊無謬論」で終わってしまうのか・・・と、拙僧的には物足りない結論でございました。しかし、この究極の教えが1つなのか、多くなのかという問い、拙僧的には、究極の教えは多いのだが、自分にとっては1つという微妙な答え方なので、釈尊的に認めてくれるかどうか不明、というかダメっぽい・・・
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tenjin95
風月
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