云何が、菩薩戒の清浄ならん。
若し菩薩摩訶薩、声聞・辟支仏心及び諸破戒、障仏道法を念わざれば、是れを戒清浄と名づく。
鳩摩羅什訳『大品般若経』巻6「発趣品第二十」
うん。これは、「菩薩戒」ではなくて、「菩薩の戒」の意味だな。要するに、大乗仏教の修行者である菩薩が、声聞や辟支仏の心、及び破戒や仏道の妨げになるようなことを想うことがなければ、戒清浄であると指摘されているのである。
よって、これはおそらく龍樹菩薩『大智度論』には解説されていないだろうと思っていたら、やっぱりその通り。以下のようにあるのみであった。
戒清浄とは、初地中に多く布施を行じ、次に持戒の布施に勝れたるを知る。所以は何となれば、持戒、則ち一切衆生を摂す。布施、則ち一切を普周すること能わず。持戒、無量に遍満す。不殺生戒の如きは、則ち一切衆生の命を施し、衆生の無量無辺、福徳も亦た無量無辺なり。諸もろの能く仏道を破することを略説すれば、此の中、皆な破戒と名づく。是の破戒の垢を離れれば、皆な清浄と名づく。乃至、声聞・辟支仏心、尚お是れ戒垢なり、何に況んや余悪をや。
『大智度論』巻49「釈発趣品第二十」
このように、「菩薩戒」については解説されておらず、「戒清浄」だけが示されている。それで、上記で説く「戒清浄」であるが、まずは同じ六波羅蜜の中でも、布施より持戒の方が勝れていることを示している。何故かといえば、持戒とは一切の衆生を摂するという。例として、不殺生戒は一切衆生の命を大事にし、その結果福徳も無量無辺であるという。
それから、持戒と破戒の違いについては、戒の垢を離れることが全て清浄である。しかし、声聞や辟支仏の心が戒の垢であるという。これは、菩薩とその生き方や目標が異なることを示す。つまり、この「戒清浄」とは、菩薩としての生き方を示すものでもあるし、それこそが菩薩の持戒である。
よって、以下のような指摘もある。
菩薩摩訶薩、二地中に住して、常に八法を念ず。何等をか八なるや。一つには、戒清浄。二つには、知恩報恩。三つには、忍辱力に住す。四つには、歓喜を受く。五つには、一切衆生を捨てず。六つには、大悲心に入る。七つには、師を信じ恭敬して諮受す。八つには、諸波羅蜜を勤求す。
『大品般若経』巻6「発趣品第二十」
このように、菩薩の「八法」の第一が、「戒清浄」なのである。先ほど挙げた布施というのは在家・出家に共通して行われることである。しかし、その後の持戒は、在家にも無いとはいわないが、本来的に求められるのは出家の立場である。そして、出家の持戒があるからこそ、その後の他の七法に繋がるのである。
さて、以上のように菩薩にとっての戒とは、戒清浄でなくてはならない。それは、声聞や辟支仏(縁覚)を否定し、どこまでも一切衆生のためを想って修行することである。一切衆生を想うことが持戒である。これは、『大般涅槃経』や瑜伽行派で展開された「菩薩戒」ほどの思想的体系化はされていない。ただし、その根源になる様子は理解出来たように思う。
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