問う、菩薩何の故に尽形の法を用いるや。
答う、菩薩の行解、広大深遠にして、尽未来際に是れ長時に修む。亦た一形尽寿の法有り。長短自在にして期に随いて即ち成ず。一法・多法、局限無きが故に、尽未来せんと欲せば通受門を用い、尽一形せんと欲せば別受用を用う。長短意に随う、法として応に爾るべきが故なり。
凝然大徳『律宗綱要(上)』、『大正蔵』巻74所収、訓読は拙僧
これであるが、拙僧などからすると、菩薩戒は「今身より仏身に至るまで」で受けるものであって、「尽形寿」ではないという観念で片付けてしまいそうなものなのだが、凝然大徳は菩薩戒であっても、「尽形寿」であるという。ただし、よくよく見てみると、普通の「尽形寿」ではなくて、「尽未来のための通受門」と、「尽一形のための別受用」という2種類があると理解出来る。
この辺の相違については、同じ『律宗綱要』で以下のように指摘している。
問う、通別二受、何れが長、何れが短なりや。
答う、通受作法、未来際を尽くす。別受唯だ是れ一形寿法なるのみ。
同上
このように、通受は尽未来際で、別受が尽一形であるという違いが強調されている。だが、やはりこれだけでは、何故通受と別受でその功徳が及ぶ違いになるのかが分からない。そこで、次の一節を見ていく必要もあるのだろう。
此の義に由るが故に、此の大戒を受くるに、総じて二門有り、其の方軌を尽くす。
一つには総受、三聚戒を牒して総通して受くるが故なり。牒する所の三聚とは、即ち是れ羯磨なり。義寂法師、此の名を立つるが故なり。占察経中、此の名有る故なり。亦た通受法と名づく。三聚を通受するが故に、慈恩・太賢、此の称を建つるが故なり。
二つには別受、三聚中に於いて、別して摂律儀戒の一門を受けて行相を尽くす故に、諸師、共同して此の名を建つるが故なり。
同上
とりあえず、こちらで通受と別受の違いについては理解出来たと思う。しかし、ここでも思想的な違いはまだちょっと分からない。そこで、以下の文脈も見ておきたい。
問う、通受律儀、既に七衆を定む。何故に必ず別受律儀を用うるや。
答う、別受作法、声聞に同ずる故に。
同上
ここから、通受の摂律儀戒では、既に七衆の区別があるとはいうが、改めて別受の摂律儀戒を用いる理由としては、それが声聞に同じだからだという。そうなると、ここから、別受は声聞であるから、この一生のみの持戒を目指すものだが、一方で通受は尽未来際に至るということは、菩薩としての生き方に対応できるので、結果としてこちらが「今身より仏身に至るまで」になっているということなのだろうか。
何だか微妙な結論になった。
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