無明の熏習によりて起こさるる識は凡夫の能く知るものに非ず、また二乗の智慧に覚せられるものにも非ず、いわく菩薩に依るも、初めの正信より発心して観察し、もし法身を証せば、少分に知ることを得るのみ、乃至、菩薩の究竟地にも知り尽くすこと能わざれば、ただ仏のみ窮了するものなり。
岩波文庫本『大乗起信論』42頁、訓読表現一部変更
迷いの影響によって、起こる様々な認識について、凡夫はそれを知ることはないという。なぜなら、それこそが迷いだからだ。本当に迷える者は、自分が迷える者だという自覚すらできない。よって、その迷いを払う修行が必要になってくる。その段階で、声聞・縁覚という二乗、あるいは菩薩があるが、それらでもまだ、すべてを明らかにすることはない。すべてを明らかにするのは、仏だけ。『法華経』の言葉を借りれば、唯仏与仏・乃能究尽というわけだ。
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