15 (他には何も語られなかったとしても)この恐れと慄きは、それ自体がすでに十分に煉獄の罰になっている。それは絶望という慄きに最も近いからである。
深井氏下掲同著・17頁
まず、冒頭に出ている「この恐れと慄き」については、【前回の記事】で採り上げた、死を迎えようとしている者への癒やしや愛が少ない状態で陥る、死を迎えようとしている者自身の恐れなどが該当する。
そして、ルターは、そのような癒やしや愛が少ないという状態そのものが、煉獄の罰に該当するといっており、理由として、絶望という慄きに最も近いからだという。
なお、「煉獄」については『鬼滅の刃』登場キャラの名字、ではなくて、『岩波キリスト教辞典』を参照すると、小罪がある死者の霊魂、または、罪の償いを果たさなかった霊魂が、天国に入る前に、現世で犯した罪に応じた罰を受け、清められる場所であるという。なお、カトリック教会や東方正教会は、煉獄の存在を認めている(ありようは両教会で相違)が、プロテスタントは『聖書』に煉獄の記述が無いことを理由に、その存在を認めていない、とされている。
そうなると、ルターは、プロテスタントの始祖とはされるが、教義や世界観はまだカトリックの影響下にあったということになろう(この辺は、イエスがユダヤ教の教義や世界観の影響下にあったことを思えば良いのだろう)。
それから、生者はミサや祈りなどによって煉獄の魂の苦しみを和らげることが出来るというが、結局、先に挙げたルターが問題にしている例では、その生前の祈りなどが不十分な状態だといえるわけで、その意味では既に、煉獄での苦しみが待っているということになるのだろう。
よって、前回の記事のように、聖職者はその死を迎えようとしている者への対応をしっかりとするべきだということなのだろうが、その辺は更に他の条文を見ながら学んでみたい。
【参考文献】
・マルティン・ルター著/深井智朗氏訳『宗教改革三大文書 付「九五箇条の提題」』講談社学術文庫・2017年
・L.チヴィスカ氏編『カトリック教会法典 羅和対訳』有斐閣・1962年
・菅原裕二氏著『教会法で知るカトリック・ライフ Q&A40』ドン・ボスコ新書・2014年
・ルイージ・サバレーゼ氏著/田中昇氏訳『解説・教会法―信仰を豊かに生きるために』フリープレス・2018年
・田中昇氏訳編『教会法から見直すカトリック生活』教友社・2019年
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