つらつら日暮らし

比丘が捨戒(還俗)をする時について

とりあえず、以下の一節を見ておきたい。

  捨戒四縁
 婆沙論に云く、尽形寿の律儀、四縁に由りて捨つ。
 一つには所学を捨つ〈即ち戒を捨つ〉。
 二には二形生ず〈即ち、男の女に変じ、女の男に変ずる時〉。
 三つには善根を断ず〈謂わく悪戒・邪見を受く〉。
 四つには衆を捨つると分を同ず〈即ち身死す〉。
    『釈氏要覧』「戒法」項、訓読は拙僧


他にも、「六縁」という話が続いているようだが、要するに「四縁」の解釈の仕方の問題であるため、ここは放っておこう。さて、ここで挙げた「捨戒」であるが、還俗論でもある。比丘が自ら受けていた戒を捨てて、僧であることを辞めることを意味する。

『釈氏要覧』では、典拠として『阿毘達磨大毘婆沙論』巻117「業蘊第四中邪語納息第二之二」を挙げている。そして、同論では「第五縁」も挙げているが、「諸持律者の説くに、法滅没の時、第五縁と為す。謂わく法滅没の時、一切の所学、出家受具、結界羯磨、悉く皆な息滅す」とあって、法滅という状態では、そもそもあらゆる仏教に関わる事象が滅するので、当然に「戒」も滅するという。何だろう。終末思想の一種かな。

そこで、先に挙げた文章を読み解いてみると、尽形寿の律儀というのは、この一生で護る戒律を指し、声聞戒をいう(菩薩戒の場合は、護持する人生の数が増え、「今身より仏身に至るまで」とする)。そして、4つのきっかけによって捨戒するというが、第一は単純に学ぶことを辞める時である。以前から指摘しているように、仏教というのは還俗の自由を持つ宗教であるから、本人の意志で辞められるのである。

第二は現代的な性的多様性に対して、制限する見解であるといえよう。要するに、性転換をした場合には、適用される戒が異なるため、捨戒しなくてはならないということか。

第三は善き行いを断つことを意味し、いわば、悪戒を受けたり、仏教について誤った見解を持った場合も、捨戒になるという。確かに、悪に堕ちれば、それ以上、仏教を学ぶ意味は無い。この辺は、例えば、日本の専修念仏系で論じられた「悪人」とは話が違う。

第四は衆を捨てることだというが、割注では自らの死を指している。尽形寿であるから、寿命が尽きれば、それ以上の学びを進められなくなることを意味し、これも、結果としては捨戒である。

よって、上記の4項目を通して、声聞戒としては捨戒となる。菩薩戒の場合、第一と第三については、共有されると思う。しかし、第二については、そもそも男女で受ける戒本を分けないので、該当せず、第四も既に拙ブログ内の幾つかの記事で述べたように、菩薩の死とは生命の死では無く、宗教的態度の問題であるから、該当しない。

この記事を評価して下さった方は、にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へにほんブログ村 仏教を1日1回押していただければ幸いです(反応が無い方は[Ctrl]キーを押しながら再度押していただければ幸いです)。

これまでの読み切りモノ〈仏教〉は【ブログ内リンク】からどうぞ。

コメント一覧

tenjin95
コメントありがとうございます。
> 桂蓮アップルバウム さん

もっと時間があれば、そういう対応も可能なのですが、今のところは厳しいです。

逆に、読みづらい漢字があれば、お答えしますので、ご質問いただければ幸いです。
桂蓮アップルバウム
https://blog.goo.ne.jp/hasunohana1966
いつも習っています。

もし、よろしかったら
漢字力が弱い私の凡人のため
ルビをつけるか、( )で漢字の読みをつけてくだされば、
読んで、速攻分かるようになるかもと思いました。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最近の「仏教・禅宗・曹洞宗」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事