ついでにいえば、「菩薩戒」について説かれている巻下も、冒頭は「爾の時、盧舎那仏、此の大衆の為に、略して百千恒河沙の不可説法門中心地を開く」とあって、やはり盧舎那仏が主人公となっており、釈尊(特に、千の釈迦)は聞き手、或いは盧舎那仏が応化した存在として描かれているのである。
その点、『瓔珞経』の場合だが、「集衆品第一」を見ると微妙な感じではある。それは、冒頭で「一時、仏」として、名前が分からない仏陀が登場するのだが、その後、「牟尼仏」と「釈迦牟尼仏」が出てくるのである。つまり、仏と釈尊と明らかに2体以上の仏陀が出ている。とはいえ、『梵網経』に於ける盧舎那仏と釈迦牟尼仏といった、明らかな主客関係が存在しているわけでは無い。
また、『瓔珞経』の場合、聞き手は敬首菩薩という菩薩である。そして、菩薩戒に関する「大衆受学品第七」では、この敬首菩薩を讃歎しつつ、仏陀が他の菩薩に対して、戒の功徳を説くという流れになっており、例えば、『梵網経』に見るような、心地戒や仏性戒といった話は出てこない。
有名なのは、以下の一節であろう。
仏子よ、若し一切の衆生、初めて三宝海に入るは信を以て本と為し、仏家に住在するは戒を以て本と為す。
このように、信と戒との関係性を主張するのである。この辺は、後々、日本を含めた菩薩戒を重視する宗派、或いは学僧達の言説に大きな影響を与えている。
初めて発心・出家し菩薩位を紹がんと欲する者は、当に先ず正法戒を受くべし。戒は是れ、一切行の功徳蔵の根本なり、正に仏果の道に向かう一切行の本なり。
こちらでも、戒の功徳が高らかに宣言されており、また、「正法戒」という用語も見られるのである。また、本経典では最初に、「三受門(三聚浄戒)」が示される。
仏子よ、今、諸もろの菩薩の為に一切戒の根本を結ぶ、いわゆる三受門なり。
摂善法戒、いわゆる八万四千の法門なり。
摂衆生戒、いわゆる慈悲喜捨して化、一切の衆生に及び、皆な安楽を得る。
摂律儀戒、いわゆる十波羅夷なり。
このように、「三受門」を通して、菩薩として、あらゆる法門を修め、十波羅夷という根本的な戒を修め、そして、一切の衆生を救うと誓うのである。「三受門」は、『梵網経』には説かれておらず、いわゆる瑜伽戒系に見られる教えではあったが、ここで両者が合流したのである。思想的な完成を目指した様子が分かるといえる。
ところで、日本の一部の宗派では、声聞戒を受けるときの「尽形寿」と対比的に、菩薩戒を受けるときには「従今身至仏身(今身より仏身に至るまで)」と唱えることになっているが、この辺も『瓔珞経』などがベースになっている。
仏、仏子に告ぐ、「今身より仏身に至るまで、未来際を尽くし、其の中間に於いて故らに殺生することを得ず。若し犯すこと有れば、菩薩行に非ず、四十二賢聖法を失す。犯すことを得ざれ、能く持つや不や」。
其の受者、答えて言く、「能くす」。
これが、いわゆる授戒法としての具体的な遣り取りになるのだが、この辺は、「説戒」を中心にしていた『梵網経』に比べて、作法としての充実を示す。そして、ほぼこの言い回しが、後の菩薩戒による授戒法には適用されていくのである。
以上の通り、中国で『梵網経』よりも後に作られたとされる『菩薩本業瓔珞経』であるが、『梵網経』との直接の関係については見えにくいものの、菩薩戒に関する思想・儀軌両面を補うようにして作られていることは分かったと思う。そうであるが故に、『梵網経』は明らかに舞台装置なども派手なのに比べ、『瓔珞経』は少しく内容は地味な印象も得るのだが、その分、菩薩戒に注目を集めやすかったかもしれない。
そんなことを備忘録的に論じてみた。
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