七月旦の上堂。
一二三四五六七、眼裏の瞳人篳篥を吹く。
七六五四三二一、石人・木人の眼涙出す。
七通八達挙著すれば、便ち知る尚お見聞の隔靴掻痒在り。
陝府の鉄牛、嘉州の大像を呑めば則ち且く置く。
仏前の階前、狗、天に尿す。
五台山上、雲、飯を蒸す。
一句、作麼生か道わん。
風来たりて樹影動き、葉落ちれば便ち秋を知る。
『圜悟録』巻7
これは、かの『碧巌録』を著した圜悟克勤禅師の上堂語である。内容を読み解きながら、考えてみたいと思う。まず、冒頭で、「一→七」と「七→一」の語句が出ている。これは、数字の増減をもって、仏法の働くさまを示しているといえるが、問題はその働く様子である。そこで、数字が大きくなる方は、眼の中にある瞳が人のようになって、楽器を吹くとしている。数字が少なくなる方は、石や木の人の眼から涙が出るとしている。
結局、両方ともに本来は起こり得ない不思議な出来事を論じていることになる。
一方で、七通八達については、その仏法の働きが満ちることを意味するが、ただそれを見聞したところで、隔靴掻痒であるという。これは、通達する働きとは、見聞だけに留まらないからである。
それから、「陝府の鉄牛」「嘉州の大像(仏像)」はともに、巨大な建造物を意味するが、巨大なものが巨大なものを飲む様子とは、これもまた不可思議であるので、それはそれで置くという。
また、仏壇の前にある階段で、犬が天に放尿する様子とは価値観が転倒する働きを示し、五台山上にて雲が飯を蒸すのは、これもまた不思議な働きを示すというが、このように不思議な働きについて、一句を述べるとすれば、何をいうべきかと、圜悟禅師は提示したが、風が吹けば樹が動き、葉が落ちる様子に秋を知るという、見聞の様子を述べた。だが、これを見聞と採れば、実は隔靴掻痒なのである。
隔靴掻痒もまた、仏法の働きと開き直るか、無分別なる仏法の働きにしっかりと没入するか、それが問題ではある。また、今日の日本もまた暑そうなので、秋を感じるより、夏本番に耐える準備が必要だといえよう。
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