奥山に、猫またといふものありて、人を食ふなる、と人の言ひけるに、山ならねども、これらにも、猫の経上りて、猫またに成りて、人とる事はあなるものを、と言ふ者ありけるを、何阿弥陀仏とかや、連歌しける法師の、行願寺の辺にありけるが聞きて、独り歩かん身は心すべきことにこそと思ひける比しも、或所にて夜更くるまで連歌して、ただ独り帰りけるに、小川の端にて音に聞きし猫またあやまたず足許へふと寄り来て、やがてかきつくままに、頚のほどを食はんとす、
肝心も失せて防がんとするに力もなく、足も立たず小川へ転び入りて、助けよや猫またよやよや、と叫べば、家々より松どもともして走り寄りて見れば、このわたりに見知れる僧なり、
こは如何にとて、川の中より抱き起したれば、連歌の賭物取りて、扇・小箱など懐に持ちたりけるも、水に入りぬ、
希有にして助かりたるさまにて、這ふ這ふ家に入りにけり、
飼ひける犬の、暗けれど主を知りて、飛び付きたりけるとぞ
吉田兼好『徒然草』第89段
まぁ、とんだ「猫又騒動」である。
いや、まさに、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」というところか?恐い恐いと思っていると、それが現実に起きてしまうことの一例である。いや、恐い恐いと思っていると、全く関係無いことでも、その恐い現実が起きたと解釈する可能性が増えるというのが、正しい表現だろうか。しかし、この時代には既に、猫又が歳を取った猫であるという見解が一般的だったようで、それはこの文章からも窺える。
当時、「○阿弥陀仏」という名前は、念仏宗の僧侶や信者であり、一字名の下に、「阿弥陀仏」を付けるのが流行っていた影響である。更に、それを略して、「○阿弥」とか「○阿」などともいう。修行をしていたかどうかも分からず、恐らくは連歌師として、たまたま僧体をしていただけのような気もする。
だからこそ、この話の出来は、今一つである。幾ら僧体をしているからといって、修行をしているかどうかも分からない状況では、暗がりで自分の飼っている犬が飛び付いてきて、それを猫又だと勘違いしても、「まぁ、それくらい起こりそう」という印象を受けてしまう。よって、もし、これを更に「説話」として練り上げていくとすれば、この僧侶は「連歌師」ではなくて、「矢でも鉄砲でも持って来い」的な強さを誇る「禅僧」辺りにしておいたら如何か。
気合いの入った僧侶が、「わしゃ恐いものはない」とかいいながら、猫又の話を聞いてしまい、暗がりで犬に飛び付かれて腰を抜かすという話だったら、もう少し笑えそうな気もする。命なんぞ、いつでも捨ててやる、とかいいながら、やっぱり「命大事に」的な言動に終始するとなると、もうこれだけで笑いは5割増のような気もするが、如何。
なお、せっかく飼っている猫、長く生きて欲しいと願うのは人情ではあるが、猫又になると人を食べてしまうので、そこまでは希望できないという微妙な距離感・・・この辺は、やはりあの、猫の行動に見る「不思議さ」が生み出したものだろうか。
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