又復た法師、能く一切の国土中に於いて、一人を教化し、出家し菩薩戒を受けしむるは、是の法師、其の福は八万四千塔を造るに勝れり。況んや復た二人・三人、乃至、百千となれば、福果、称量すべからず。其の師とは、夫婦六親、互いに師と為りて授けることを得る。其の受戒とは、諸仏界の菩薩数中に入りて、三劫生死の苦を超過す。是の故に応に受くべし。
『菩薩瓔珞本業経』「大衆受学品」
上記一節について、拙僧が引っかかっているのは、2点である。まず、法師が或る人を教化して、出家させ、菩薩戒を受けさせたとすれば、その功徳は八万四千の卒塔婆を立てるよりも功徳があるとしているのである。
さて、問題だが、記事のタイトルにもしたが、「其の師とは、夫婦六親、互いに師と為りて授けることを得る」とあることである。これはつまり、菩薩戒の師(戒師)としては、夫婦や六親(親族)がお互いに師となって、お互いに授けることで戒を得られるという立場であるといえる。
果たして、出家・在家の垣根があまりないと思われる菩薩戒であるが、夫婦がお互いに師となるというようなことが許されるのであろうか?
そこで、この点について、『瓔珞経』の中には有名な一節が見られる。
仏子よ、受戒に三種の受有り。
一つには諸仏・菩薩の現在前にして受く。真実上品戒を受く。
二つには諸仏・菩薩、滅度の後、千里内に先の受戒菩薩有るは、法師と為りて我に戒を教授することを請せよ。
三つには仏滅度の後、千里内に法師の無き時は、応に諸仏・菩薩の形像の前に在りて、胡跪合掌して自誓受戒せよ。
「大衆受学品」
ということで、こちらを見ても、夫婦などが互いに師になるという記述は無いように思ったのだが、ふと、「法師」という存在が、もしかすると出家者のみを意味していなかった可能性について思い付いた。何故ならば、あくまでもここで「法師」となる条件を有するのは、「先の受戒菩薩」というだけで、出家者と定義しているわけでは無いからである。そのように、改めて同経典の「法師」という表現について確認すると、以下のことが分かった。
若し人来たりて受けんと欲するもの有らば、菩薩法師、先ず為に解説・読誦せよ。
同上
ここも、ただ「菩薩法師」とのみあって、これが出家か在家かを分別していないように思うのである。つまり、声聞的な出家・在家という区分を超えて、ただ「菩薩」という枠組みを認め、「菩薩戒」はそのための戒であったという基本に立ち返る必要を感じたのであった。
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