天真寺日記

天真寺の日々を綴ります

おさい銭 投げると失礼?

2006-12-16 10:01:03 | 宗教
12.15の朝日新聞に「疑問解決モンジロー」のコーナーで、お賽銭についての記事が掲載されていました。ちなみに、テーマはおさい銭投げるのは失礼ではないか?であります。

そこで、お賽銭とは何のため?それぞれの宗教の見解がご紹介されていました。

神社

おさい銭は、もとは「恵みに感謝する」という意味があり、海産物や洗った米を白い紙に包んでささげていた。この「洗米」が「散米」お呼ばれ、貨幣経済が浸透した室町時代にはお金に変わって「散銭」となった。

時代は変わり、戦国時代。
鶴岡八幡宮の別当職の日記に、散銭が散らばらないよう一箇所に集める「散銭櫃」を置いたという記述があり、これが賽銭箱の始まりではないかと。

散銭から賽銭に変化したが、「賽」には、実は神仏へのお礼という意味がある。
でも現在は、お礼よりもお願い事が中心になっている。
そのことについて、
米からお金になると、お参りも感謝に加えて願い事をするようになったようです
と解説されています。

仏教

仏教は、欲や執着を捨てることが大切と考えます。
お参りは欲望を願うのではなく、今、生かされていることに感謝し手を合わせます

というように、投げるというスタイルよりも気持ちが大切。


次は、おさい銭のお金に注目した考え方。

キリスト教

願い事ではなく、すべては神に与えられたと感謝し、少し神にお返しする

イスラム教

すべての本当の持ち主は神と考えられ、持てる者が貧しい者に援助することは、神に対する義務と考えられている

最後に、
「お金を投げる」といえば、ローマのトレビの泉であるが。
国立歴史民族博物館の新谷尚紀教授の意見が紹介されていた。

人が泉にコインを投げるのは『衝動』から・・

貨幣は、死や罪などの汚れの吸引装置。人の潜在意識にはケガレをはらい清めたい衝動があるので投げたくなる。おさい銭も泉のコインも意識は同じ。

と分析をしている。

生きていればいいこともあるし悪いこともある、
知らず知らずにケガレを積み重ねているのが人間なのだろう。
そんな思いを心の底で自覚しているからこそ、おさい銭に私のケガレを託すのだろうか?
だからこそ、初詣には、「今年こそは」とたくさんの方々が出掛けられるのだろう。

仏教では、

お参りは欲望を願うのではなく、今、生かされていることに感謝し手を合わせます 。

と。

我が身の病や罪をケガレとは考え切り捨てずに、1つ1つ有難きご縁と向かい合い共に歩んでいく世界であります。
そこにこそ、より充足した生活が開かれてくるのではないでしょうか。

(龍)