天真寺日記

天真寺の日々を綴ります

冬至

2006-12-22 12:42:42 | 日々
今日は冬至。
昔からカボチャを食べてゆず湯に入る。
これで風邪を引かないと聞いてきました。

今朝のテレビでは、冬至に食べたほうがいいもの、実は7つあると紹介していました。
ヒントは・・・○ん○ん

7つ思いつきましたか?
正解は・・・
れんこん
かんてん
ぎんなん
きんかん
にんじん
うんどん(うどんのことを昔はこう言っていたそうです)
そして、なんきん(かぼちゃ)

うん(運)もついていいとかなんとか、話していました。
やはり、季節感を感じながら旬のものをとるのが一番いい、ということでしょうか。

ノロウイルスが流行っている今年の冬。
体に気をつけて過ごして下さい。

(静)

今年最後の仏教講座会

2006-12-21 18:03:09 | 天真寺
20日はお寺の日。
12月20日今年度最後の仏教講座会でありました。

11:00より写経の時間。
正信偈を写経します。

ご報告ですが、来年からはお経本を作るタイプの写経になります。
詳細は、また後日お知らせいたします。

13:30より、天真寺衆徒による御法話であります。

一番目は、坊守。



次は、静香。



龍哉。



最後は住職であります。



一年の最後をご門徒さんとともに仏様のお話で締めくくります。

そして、楽しみのプチ忘年会です。
ご門徒さんが持ち寄って下さったおつまみと共にお酒を片手に・・・







顔を真っ赤にしながらの楽しいひとときでした。

(龍)


天真寺雅楽 school 開講

2006-12-18 21:41:03 | 雅楽教室
12月17日(日)15:00より雅楽schoolが開講されました。

今回は9名が参加し、はじめに楽譜の見方、そして唱歌の練習。
そして、龍笛・篳篥・笙それぞれの楽器をきめて演奏です。

今回が、雅楽をさわるのが初めてという方もいらっしゃいましたが、
弘山先生謂く「初めからこれほど音が出るのは Good!」だそうです。




みんな先生のお話を熱心に聞いております。



そして、それぞれの管での演奏。



笹木さん、最後には音がでるようになりました。




住職は、笙の練習をしております。

最後にみんなで演奏です。





アットホームな雰囲気の中、あっという間に第一回目の練習が終了しました。

次回は、1月21日(日)15:00~です。

1ヶ月2回雅楽の練習の予定でありましたが、
初めの3ヶ月は知らない者同士で練習をすると、
音がでないとムキになってしまい間違ったモノを覚えてしまう恐れがあるため、
慣れるまでは先生が来て下さる1ヶ月1回が雅楽の日ということになりました。




おさい銭 投げると失礼?

2006-12-16 10:01:03 | 宗教
12.15の朝日新聞に「疑問解決モンジロー」のコーナーで、お賽銭についての記事が掲載されていました。ちなみに、テーマはおさい銭投げるのは失礼ではないか?であります。

そこで、お賽銭とは何のため?それぞれの宗教の見解がご紹介されていました。

神社

おさい銭は、もとは「恵みに感謝する」という意味があり、海産物や洗った米を白い紙に包んでささげていた。この「洗米」が「散米」お呼ばれ、貨幣経済が浸透した室町時代にはお金に変わって「散銭」となった。

時代は変わり、戦国時代。
鶴岡八幡宮の別当職の日記に、散銭が散らばらないよう一箇所に集める「散銭櫃」を置いたという記述があり、これが賽銭箱の始まりではないかと。

散銭から賽銭に変化したが、「賽」には、実は神仏へのお礼という意味がある。
でも現在は、お礼よりもお願い事が中心になっている。
そのことについて、
米からお金になると、お参りも感謝に加えて願い事をするようになったようです
と解説されています。

仏教

仏教は、欲や執着を捨てることが大切と考えます。
お参りは欲望を願うのではなく、今、生かされていることに感謝し手を合わせます

というように、投げるというスタイルよりも気持ちが大切。


次は、おさい銭のお金に注目した考え方。

キリスト教

願い事ではなく、すべては神に与えられたと感謝し、少し神にお返しする

イスラム教

すべての本当の持ち主は神と考えられ、持てる者が貧しい者に援助することは、神に対する義務と考えられている

最後に、
「お金を投げる」といえば、ローマのトレビの泉であるが。
国立歴史民族博物館の新谷尚紀教授の意見が紹介されていた。

人が泉にコインを投げるのは『衝動』から・・

貨幣は、死や罪などの汚れの吸引装置。人の潜在意識にはケガレをはらい清めたい衝動があるので投げたくなる。おさい銭も泉のコインも意識は同じ。

と分析をしている。

生きていればいいこともあるし悪いこともある、
知らず知らずにケガレを積み重ねているのが人間なのだろう。
そんな思いを心の底で自覚しているからこそ、おさい銭に私のケガレを託すのだろうか?
だからこそ、初詣には、「今年こそは」とたくさんの方々が出掛けられるのだろう。

仏教では、

お参りは欲望を願うのではなく、今、生かされていることに感謝し手を合わせます 。

と。

我が身の病や罪をケガレとは考え切り捨てずに、1つ1つ有難きご縁と向かい合い共に歩んでいく世界であります。
そこにこそ、より充足した生活が開かれてくるのではないでしょうか。

(龍)

デスノート

2006-12-10 22:37:35 | 日々
やっと完成しました!

東京教区青年僧侶協議会(東青僧)から年数回季刊誌が発行されています。
今回、そのトップ記事「愚者愚者」の寄稿のご縁をいただきました。
何といっても物書きが苦手な私にとっては一苦労でした。

テーマは、今話題の「デスノート」。
以前、松本智量先生に薦めていただいて読んだ漫画『デスノート』。その斬新なアイデアと複雑に展開するストーリー、すっかり漫画の魅力の虜になりました。
現在は、映画版も出来、前編に続き、後編も大ヒット上映中。

『デスノート』妖怪を思わせるようなネーミングがグッドですね。

以下苦心の作の原稿を紹介します。
ぜひご批評をお願い致します。



「デスノート」そのノートに名前を書かれた人間は必ず死ぬ。
そんな恐ろしいノートをめぐるストーリーが人気を博している。死神が落としたデスノートを使って犯罪のない世界を作り上げるため、正義感に貫かれ犯罪者を粛清していくエリート大学生キラ。それに対し、警察の要請でキラを追う天才少年エル。二人の間の壮絶な頭脳戦が繰り広げられストーリーは展開する。

この話から考えさせられるテーマは、善とは何か、悪とは何か。
キラにとって犯罪者は悪。そしてそれを裁く自分は善。
理想の社会を築くという大義名分のもと、次々と何のためらいもなくデスノートに名前を書き込み、犯罪者たちを殺し続ける。そして最後には、何の罪も犯していない実の父親さえも殺そうとする。なぜなら、目的達成の妨げとなるから。裁くべき悪が、社会的悪から、自分にとって不都合なもの、邪魔なものへと変わってしまったのである。自分の基準で判断する善悪がいかにあやふやなものか、そのこわさが思い知らされる。そして、自分が正義だという思い込みから殺人さえも犯す。その驕りもおそろしいものである。

『歎異抄』には「善悪のふたつ、総じてもって存知せざるなり」とある。
親鸞聖人は私には善悪を深く見極め、はっきりと裁けるほど偉い人間ではないと自分自身を見つめられる。分別を超えた仏さまの慈しみのこころに出遇ってこそ、本当の自分のすがたを知り、ありのままを受け入れられる。そこに裁き合い切り捨てていく世界から、生かし合う世界が開けるのであろう。

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と書きながら、正直まだデスノートⅡは映画をみていないのです
だから、友人に話を聞いたり、批評をみたり・・・
「百聞は一見にしかず」であります、早速映画版を見に行かなければ。

それにしても、こういうテーマの映画が話題になるということは、そこに私たちは何を求めているのだろうか?と考えさせられたことです。

(龍)