ちば のぶよのHappy Beading Life

ビーズと暮らすライフスタイルを発信!

あれから15年

2010-01-17 | その他

寒い日が続いていますが、お元気ですか?
来週は春の陽気になるようですね。
九州に来たもののあまりに寒いので、あまり出かけていません…

昨日「土曜プレミアム」を見ました。
みなさんの中でもご覧になった方はいらっしゃるかなぁ?
阪神淡路大震災から15年。
私も15年前は被災者の1人でした。

テレビを見て当時の記憶がよみがえってきました。
人間の記憶というのは、都合よくできているものなのか、この15年地震の事はほとんど思い出すことなく過ごして来た様な気がします。
地震のあったとき、私は大学4年生でした。
ちょうどその1年前、宝塚の家に引っ越してきたばかりで、地震の前日は1周年をお祝いしてたっけ…

朝5時17分、突然地面を突き上げるような大きな揺れと音に目が覚めました。
最初の衝撃から横揺れの間までに数秒の間があったので、最初は「地震」だと認識することもできず(寝ぼけていたこともありますが)、爆弾でも落ちたのかと思いました。
それくらい(考える時間があるくらい)の間があったのです。

そして少しして大きな横揺れ。
自室で寝ていた私は、意外と冷静に地震の揺れを見ていました。
ベッドサイドは本棚だったのですが、あまりの横揺れだったために本は私に落ちてくることはなく、放射線状に部屋の真ん中に集まるように落ちてきました。

時間が経つにつれ、事の大きさを実感し、同時に家族の安否が気になりました。
最初に同じ階に寝ていた父と弟の無事を確認し、転がるように階段を降り、それから下で寝ていた母も無事であることが分かり、着の身着のままで家の外に出ました。
空がまだ暗かったのを覚えています。
家の中は危ないので少しの間外に出ていました。
我家は坂の上に位置していたので、余震が来たときに坂全体が揺れている感じがして、それはそれは怖かったです。
揺れが少しおさまって、リビングに入ってみると、食器は無残に割れ、大型テレビまでも部屋の中央に来ていました。
それほどまでの地震でした。

地震後、すぐにラジオをつけました。
強い地震があったということは割りとすぐにニュースになっていたような気がしますが、まだ情報が錯綜していたような気がします。
昨日のテレビを見て、マスコミの方々の苦労を再認識しました。
確かにあのときの被災者にとって一番必要としていたものは「情報」だったと思います。

その後はライフラインを断たれ、暗い中で余震におびえる日々が続きました。
経験したことがない大きな揺れは、トラウマとなり余震が怖くて仕方がありませんでした。
いまだにどんなに小さくても地震の揺れを感じると、異様に怖いと感じます。

地震の数日後、まだ混乱する街の中を抜けて大阪に行ったときのことははっきり覚えています。
何一つ変わらない大阪の街。
ほんの電車で15分の距離なのに…
千葉と東京の間を江戸川が流れているように、兵庫と大阪の間には淀川が流れていますが、この淀川が天国と地獄の境界線のような気がしました。
ちょっとうらめしくも感じたくらいです。

生活にはしばらく不便があったのと、幸い学生だったため地震後しばらく大分に避難しました。
大分に行く途中の飛行機が結構揺れて、私は大丈夫でしたが嘔吐している人が大勢いました。みんな「揺れ」には過敏になっていました。

ちょうど私はそのころ市立病院でアルバイトしていました。
地震の影響でアルバイト先にはしばらく通うことが出来ませんでしたが、しばらくして復帰したときに、アルバイト先の上司から地震のときの病院の惨状を聞きました。
病院は地震で亡くなった方の遺体で埋め尽くされていたそうです…
力になれなくて申し訳ない思いと、悲惨な光景を見ずにすんだ安堵とが入り混じって複雑な気分になりました。

近しい友人や家族は皆無事でしたが、知人で亡くなった人もいます。
あの地震で、自然の前での人間の無力さを知りました。
明日何が起きるかも分からない。
だからこそ、毎日毎日、精一杯生きようと思うようになりました。

あれから15年。
街は驚くほど復興しましたが、被災者の心はまだ元には戻っていません。
犠牲になられた方々のご冥福をお祈りします。


あれから15年

2010-01-17 | Weblog

寒い日が続いていますが、お元気ですか?
来週は春の陽気になるようですね。
九州に来たもののあまりに寒いので、あまり出かけていません…

昨日「土曜プレミアム」を見ました。
みなさんの中でもご覧になった方はいらっしゃるかなぁ?
阪神淡路大震災から15年。
私も15年前は被災者の1人でした。

テレビを見て当時の記憶がよみがえってきました。
人間の記憶というのは、都合よくできているものなのか、この15年地震の事はほとんど思い出すことなく過ごして来た様な気がします。
地震のあったとき、私は大学4年生でした。
ちょうどその1年前、宝塚の家に引っ越してきたばかりで、地震の前日は1周年をお祝いしてたっけ…

朝5時17分、突然地面を突き上げるような大きな揺れと音に目が覚めました。
最初の衝撃から横揺れの間までに数秒の間があったので、最初は「地震」だと認識することもできず(寝ぼけていたこともありますが)、爆弾でも落ちたのかと思いました。
それくらい(考える時間があるくらい)の間があったのです。

そして少しして大きな横揺れ。
自室で寝ていた私は、意外と冷静に地震の揺れを見ていました。
ベッドサイドは本棚だったのですが、あまりの横揺れだったために本は私に落ちてくることはなく、放射線状に部屋の真ん中に集まるように落ちてきました。

時間が経つにつれ、事の大きさを実感し、同時に家族の安否が気になりました。
最初に同じ階に寝ていた父と弟の無事を確認し、転がるように階段を降り、それから下で寝ていた母も無事であることが分かり、着の身着のままで家の外に出ました。
空がまだ暗かったのを覚えています。
家の中は危ないので少しの間外に出ていました。
我家は坂の上に位置していたので、余震が来たときに坂全体が揺れている感じがして、それはそれは怖かったです。
揺れが少しおさまって、リビングに入ってみると、食器は無残に割れ、大型テレビまでも部屋の中央に来ていました。
それほどまでの地震でした。

地震後、すぐにラジオをつけました。
強い地震があったということは割りとすぐにニュースになっていたような気がしますが、まだ情報が錯綜していたような気がします。
昨日のテレビを見て、マスコミの方々の苦労を再認識しました。
確かにあのときの被災者にとって一番必要としていたものは「情報」だったと思います。

その後はライフラインを断たれ、暗い中で余震におびえる日々が続きました。
経験したことがない大きな揺れは、トラウマとなり余震が怖くて仕方がありませんでした。
いまだにどんなに小さくても地震の揺れを感じると、異様に怖いと感じます。

地震の数日後、まだ混乱する街の中を抜けて大阪に行ったときのことははっきり覚えています。
何一つ変わらない大阪の街。
ほんの電車で15分の距離なのに…
千葉と東京の間を江戸川が流れているように、兵庫と大阪の間には淀川が流れていますが、この淀川が天国と地獄の境界線のような気がしました。
ちょっとうらめしくも感じたくらいです。

生活にはしばらく不便があったのと、幸い学生だったため地震後しばらく大分に避難しました。
大分に行く途中の飛行機が結構揺れて、私は大丈夫でしたが嘔吐している人が大勢いました。みんな「揺れ」には過敏になっていました。

ちょうど私はそのころ市立病院でアルバイトしていました。
地震の影響でアルバイト先にはしばらく通うことが出来ませんでしたが、しばらくして復帰したときに、アルバイト先の上司から地震のときの病院の惨状を聞きました。
病院は地震で亡くなった方の遺体で埋め尽くされていたそうです…
力になれなくて申し訳ない思いと、悲惨な光景を見ずにすんだ安堵とが入り混じって複雑な気分になりました。

近しい友人や家族は皆無事でしたが、知人で亡くなった人もいます。
あの地震で、自然の前での人間の無力さを知りました。
明日何が起きるかも分からない。
だからこそ、毎日毎日、精一杯生きようと思うようになりました。

あれから15年。
街は驚くほど復興しましたが、被災者の心はまだ元には戻っていません。
犠牲になられた方々のご冥福をお祈りします。