十三
6月の第一日曜日、ふれあい園の潮干狩りの日がやって来た。朝8時集合、参加メンバー13名、家族7名、スタッフは理事長以下3名、それに加えること健二・宏子それと奈々子の3名だから総勢26名である。理事長の中川さんが大型のマイクロバスをチャーターした。東京から少し離れた湘南の海に向けてバスは走った。
バスの中は賑やかだった。バスガイドさんがついたのだが、そのガイドさんが愉快な歌やクイズで盛り上げてくれた。時間があったのでカラオケも使わせてもらうことになり、メンバーたちは我先になった。宏子は歌わなかったが、健二が昔の古い演歌を歌うと中川さんやメンバーの川上さんは大喜びだった。奈々子が最新のアイドルグループのヒット曲を歌うと若いメンバーたちは大盛り上がりだった。
東京から3時間、目的地の海岸へやって来た。空はよく晴れて青かった。海もまた青かった。かもめが飛んでいた。まだ6月のはじめだが、もう真夏のように暑く、汗ばむくらいだった。ただ時折さわやかな初夏の風が吹いて気持ちよかった。障害者のメンバーたちは一斉に浜へ駆け出していった。健二も今日ばかりは大はしゃぎでメンバーの佐々木さんやほかの男連中たちとスコップを持って浜へ出た。宏子はそんな健二を見て奈々子と苦笑した。
始まって小1時間ほどして一行は昼食を取った。スタッフと健二・宏子・奈々子が総出で用意したおにぎりと玉子焼き、鮭の塩焼きだった。みんなおいしいと争って食べた。
食事の後は自由な時間となった。メンバーたちはまた砂浜を掘ったり、波打ち際へ行って海水に素足を浸したり、浜辺に座っておしゃべりしたり、思い思いに過ごした。奈々子はスタッフの山本さん、石川さんと食事の後片付けをしていたが、ふと健二はどうしているだろうと思った。健二は仲間たちと離れて一人で立っていた。ブラウスも脱いでTシャツ一枚で海を眺めていた。
片付けを終えて奈々子もTシャツ姿で健二のもとへ行った。
「ああ、奈々子さん。」 健二はやって来た奈々子を見て声をかけた。
「どうなさったんですか? 一人でボーっと海なんか見ちゃって。」
奈々子は応えた。二人の間をさわやかな初夏の風が抜けていった。
「海を見ていたんですよ。あの水平線はここから5,6キロ先のあたり。ぼくたちの見ているこの半径5キロの視界はいわば地球という球体をこの地点で微分した一部分で・・・」
と健二は言った。言って一人で少し笑った。
「なんてよしますか、こんな話。今日くらいは。」
「もう、健二さんたら」
奈々子もそんな健二を見て微笑み返した。空にはかもめが飛び交い、二人がそれぞれ着ていたTシャツが風に泳いだ。
「なんだか、言葉がいらない・・・」
奈々子は気持ちが高ぶるのを感じた。健二とこの場所で時間を共有できることを喜んだ。
しばらく、そのまま時間が流れた。
「ぼくが今22歳の青年だったら奈々子さんに恋しただろうな。」
ふと、急に健二が言った。奈々子はびっくりした。
「健二さん?!」
「あっ、ああごめんなさい、奈々子さん。これではただのやらしい男ですね。失礼しました。」
「・・・」
「な、奈々子さん?」
「嘘なんですか、今の?」
奈々子が逆に聞き返した。その一言にはむしろ怒りすら込められていた。
「ごめんなさい、奈々子さん。ぼくはただ、場のノリというか、気分的にちょっと・・・」
「私に恋しないんですね。」
「だからその・・・」
「私は恋しています。」
奈々子はきっぱり言った。
「私は・・・、健二さんが好きだから!!」
健二はぎょっと奈々子を見た。
言ってしまった・・・奈々子は思った。自分の一番正直な気持ち。伝えたかったけど今まで伝えられなかった思い。
「高校生のときにフランス語講座で出会って、数学や経済のことを教えてくれて、優しくて誠実で、ずっとあこがれていました。尊敬していました。」
「奈々子さん・・・」
健二は何か言いかけた。
「でも、分かっています。私なんかじゃ全然ダメだってこと。健二さんとは歳も離れていますし、奥さんもいらっしゃるし。ごめんなさい」
奈々子の眼から涙が頬を伝って落ちた。
「奈々子さん、本当にありがとう。どうか泣かないでください。でも、お気持ちにお応えすることは・・・。宏子のこともありますし、申し訳ない。それにぼくは恋愛は不得意ですから。」
奈々子は泣いた。
「でも奈々子さん、あなたは本当にすてきな方です。宏子以上に価値のある方です。」
健二は補足した。奈々子はとめどなく涙が溢れて何も言えなかった。
奈々子は健二から離れ、とぼとぼと砂浜を歩いた。健二は追いかけようとはしなかった。
さっきまで青かった空に雲が垂れ込めてきた。かもめも姿を消した。
ただ、海だけが穏やかだった。
健二に失恋して以来、奈々子はふれあい園のアルバイトに行けなくなってしまった。無断欠勤するようになった。最初のうちは施設から奈々子の携帯や自宅に電話があったが、そのうちそれもなくなった。施設へいかなければならない、連絡を入れなければならない、それは分かっていた。
しかし出来なかった。出来ないまま時間だけが過ぎた。
6月の第一日曜日、ふれあい園の潮干狩りの日がやって来た。朝8時集合、参加メンバー13名、家族7名、スタッフは理事長以下3名、それに加えること健二・宏子それと奈々子の3名だから総勢26名である。理事長の中川さんが大型のマイクロバスをチャーターした。東京から少し離れた湘南の海に向けてバスは走った。
バスの中は賑やかだった。バスガイドさんがついたのだが、そのガイドさんが愉快な歌やクイズで盛り上げてくれた。時間があったのでカラオケも使わせてもらうことになり、メンバーたちは我先になった。宏子は歌わなかったが、健二が昔の古い演歌を歌うと中川さんやメンバーの川上さんは大喜びだった。奈々子が最新のアイドルグループのヒット曲を歌うと若いメンバーたちは大盛り上がりだった。
東京から3時間、目的地の海岸へやって来た。空はよく晴れて青かった。海もまた青かった。かもめが飛んでいた。まだ6月のはじめだが、もう真夏のように暑く、汗ばむくらいだった。ただ時折さわやかな初夏の風が吹いて気持ちよかった。障害者のメンバーたちは一斉に浜へ駆け出していった。健二も今日ばかりは大はしゃぎでメンバーの佐々木さんやほかの男連中たちとスコップを持って浜へ出た。宏子はそんな健二を見て奈々子と苦笑した。
始まって小1時間ほどして一行は昼食を取った。スタッフと健二・宏子・奈々子が総出で用意したおにぎりと玉子焼き、鮭の塩焼きだった。みんなおいしいと争って食べた。
食事の後は自由な時間となった。メンバーたちはまた砂浜を掘ったり、波打ち際へ行って海水に素足を浸したり、浜辺に座っておしゃべりしたり、思い思いに過ごした。奈々子はスタッフの山本さん、石川さんと食事の後片付けをしていたが、ふと健二はどうしているだろうと思った。健二は仲間たちと離れて一人で立っていた。ブラウスも脱いでTシャツ一枚で海を眺めていた。
片付けを終えて奈々子もTシャツ姿で健二のもとへ行った。
「ああ、奈々子さん。」 健二はやって来た奈々子を見て声をかけた。
「どうなさったんですか? 一人でボーっと海なんか見ちゃって。」
奈々子は応えた。二人の間をさわやかな初夏の風が抜けていった。
「海を見ていたんですよ。あの水平線はここから5,6キロ先のあたり。ぼくたちの見ているこの半径5キロの視界はいわば地球という球体をこの地点で微分した一部分で・・・」
と健二は言った。言って一人で少し笑った。
「なんてよしますか、こんな話。今日くらいは。」
「もう、健二さんたら」
奈々子もそんな健二を見て微笑み返した。空にはかもめが飛び交い、二人がそれぞれ着ていたTシャツが風に泳いだ。
「なんだか、言葉がいらない・・・」
奈々子は気持ちが高ぶるのを感じた。健二とこの場所で時間を共有できることを喜んだ。
しばらく、そのまま時間が流れた。
「ぼくが今22歳の青年だったら奈々子さんに恋しただろうな。」
ふと、急に健二が言った。奈々子はびっくりした。
「健二さん?!」
「あっ、ああごめんなさい、奈々子さん。これではただのやらしい男ですね。失礼しました。」
「・・・」
「な、奈々子さん?」
「嘘なんですか、今の?」
奈々子が逆に聞き返した。その一言にはむしろ怒りすら込められていた。
「ごめんなさい、奈々子さん。ぼくはただ、場のノリというか、気分的にちょっと・・・」
「私に恋しないんですね。」
「だからその・・・」
「私は恋しています。」
奈々子はきっぱり言った。
「私は・・・、健二さんが好きだから!!」
健二はぎょっと奈々子を見た。
言ってしまった・・・奈々子は思った。自分の一番正直な気持ち。伝えたかったけど今まで伝えられなかった思い。
「高校生のときにフランス語講座で出会って、数学や経済のことを教えてくれて、優しくて誠実で、ずっとあこがれていました。尊敬していました。」
「奈々子さん・・・」
健二は何か言いかけた。
「でも、分かっています。私なんかじゃ全然ダメだってこと。健二さんとは歳も離れていますし、奥さんもいらっしゃるし。ごめんなさい」
奈々子の眼から涙が頬を伝って落ちた。
「奈々子さん、本当にありがとう。どうか泣かないでください。でも、お気持ちにお応えすることは・・・。宏子のこともありますし、申し訳ない。それにぼくは恋愛は不得意ですから。」
奈々子は泣いた。
「でも奈々子さん、あなたは本当にすてきな方です。宏子以上に価値のある方です。」
健二は補足した。奈々子はとめどなく涙が溢れて何も言えなかった。
奈々子は健二から離れ、とぼとぼと砂浜を歩いた。健二は追いかけようとはしなかった。
さっきまで青かった空に雲が垂れ込めてきた。かもめも姿を消した。
ただ、海だけが穏やかだった。
健二に失恋して以来、奈々子はふれあい園のアルバイトに行けなくなってしまった。無断欠勤するようになった。最初のうちは施設から奈々子の携帯や自宅に電話があったが、そのうちそれもなくなった。施設へいかなければならない、連絡を入れなければならない、それは分かっていた。
しかし出来なかった。出来ないまま時間だけが過ぎた。