湖坊諒平っていうブログ

貧しくも 富士より高し わがモチベ

アンダーラブ vol.11

2016-01-17 12:53:17 | 小説
十四

 ふれあい園から奈々子に解任の通知が来た。無理もない、黙って行かなくなって1ヶ月、まったく仕事に行かなくて一切連絡していないのだから。1ヶ月待ってもらっただけでも感謝しなければならないところだ。
 奈々子の母は口をすっぱくして厳しく言った。『せめて最後にあいさつだけはして来なさい。』気は進まなかった。季節は過ぎ、秋が来て冬になろうとしていた。11月のある日曜日、施設まで行くことにした。
 ふれあい園の正面入り口まできて急に入るのが嫌になった。やっぱり入れない、健二がいるかもしれない。怖ろしいほどの嫌気が差してきた。外は11月だから寒かったが、それでも入るのをためらった。でも奈々子は健二に会うのが怖いはずなのに自分が健二に会えることを期待していた。自分の矛盾に気付いていた。
 気がつくとやってきてからもう2時間が過ぎようとしていた。
 やがて雨が降ってきた。奈々子は傘を持っていなかった。帰りたい、でも入らなければ、そんな思いで濡れながら佇んでいた。
 しばらくして喫茶コーナーの扉が開いた。宏子だった。
「あら、奈々子さん、どうしたの? ずぶ濡れじゃない。とりあえず入って。」
奈々子は何も応えなかった。応えることが出来なかった。
「おいしいアールグレイを入れるわ。もちろん温かいの。アップルパイもいかが?」
気は進まなかったがとりあえず喫茶コーナーに入った。かつて奈々子も働いていたところだ。宏子は奈々子に乾いたタオルを持ってきて、紅茶を淹れた。
「私の自慢のアップルパイよ。奈々子さんもよくご存知だとは思うけど。ここの喫茶コーナーの目玉商品。これがあったから私喫茶コーナーの責任者に抜擢されたの。とは言っても時給300円だけど。」
宏子は笑った。「何もとりえのない私にとっての唯一のとりえがこのアップルパイを焼くことなの。召し上がって。」
アップルパイの乗った皿をテーブルの上に出した。奈々子は黙って食べ始めた。
「しばらく見かけなかったけど、どうしていたの?」
奈々子はうつむいて何も応えなかった。
「ケンちゃんから聞いたわ。好きです、って言ったんですってね。」
奈々子は顔を上げた。
「分かるわ・・・。ケンちゃんって本当にすてきな人・・・。」
宏子は少し視線を上に向けて言った。
「・・・」
「正直思わない? 何で私みたいな女があんないい人と結婚できたのかって。」
「いいえ、そんなことは・・・」奈々子はやっと応えることが出来た。
「無理しなくていいのよ。私自身が一番そう思っているから。」
宏子はにっこり微笑んだ。
「ケンちゃんって・・・優しくてでも強くて頼りがいがあるわ。ハンサムで背が高くてスタイルもいいし。障害年金、それも公務員出身だからいい年金をもらいながらちゃんとお勤めもしていて経済力もあるの。ユーモアもあって人当たりがよくて。もう何十人分もの長所が服を着て歩いているような人なの。それに比べて私なんか心も体も病弱でわがままばっかりのただのオバサンね。」
そんなことないです、奈々子は反論した。
「私たちってこの法人のきぼう作業所で知り合ったの。入ったのは私のほうが先で後からケンちゃんが来たんだけど、あるとき急にケンちゃんからデートのお誘いがあったの。美術展のチケットが2枚あるんだけど、一緒に行きませんかって。私、美術のことはよく分からないけど、本当うれしかった。私って彼氏いない歴27年の女だったから正直信じられなかったけど、喜んでOKしたわ。そのデートがきっかけでお付き合いが始まって1年後にプロポーズされたわ。私ケンちゃんよりひとつ年上なんだけど、もう彼に夢中だった。」
「・・・」
「ごめんなさいね、私の自慢話ばっかりで。ただ、とにかく私たちは一緒になって幸せに暮らしてきたの。私はたびたび入院したけど、ケンちゃんが何度もお見舞いに来てくれて身の回りの世話をしてくれたわ。本当に支えてくれた。そんな彼だからこのふれあい園でも女性に大人気よ。みんな私に羨望のまなざしだわ。心地いいような、くすぐったいような。奈々子さんもきっとみんなと同じ思いだと思っていたわ。」
「わ、私の好意に気付いておられたんですか?」
「もちろんよ。」
「ごめんなさい。ご主人さんのこと好きになったりして・・・。」
「構わないわ。好きになることくらい誰でもあることだから。ただ、ケンちゃんがどう思うか分からないけど、奈々子さんならケンちゃんも好きになりそう。私たちライバルね。」
宏子はにこっ、と微笑んだ。
「握手!」 宏子は右手を差し出した。
奈々子は弱々しく宏子の手を握った。急に奈々子は自分の奥底からこみ上げてくるものを感じた。
「アップルパイもう一切れいかが?」
奈々子の目から涙が零れ落ちた。涙を拭おうともしなかった。奈々子は財布から千円札を一枚取り出し、テーブルの上に置いた。
「お、お代はいいわよ、私のおごりだから。」 宏子は言った。
大粒の涙が零れ落ちた。『ごちそうさまでした』それだけ言うと奈々子は喫茶ルームを飛び出した。
 外はまだ雨が強く降っていた。だが、奈々子は傘もなく濡れて行った。
「ライバルだなんて・・・私の完敗じゃない。」
宏子に自分を重ね合わせると負けているのは一目瞭然だった。宏子の優しさ、広い心、余裕。すべてにおいて私は負けている。奈々子はそう思った。
 11月の冷たい雨に濡れながら奈々子は走った。

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