たまには普段と違った話題。
ボクはン年も前に法学部に通っていて、その頃から嫡出でない子の相続分が問題になっていました。
で、先ごろの相続分の規定について違憲判決が下り、それをうけて民法の改正案が成立しました。
まあこれについては色々な意見があるのでしょうけれども、ボクは歓迎すべきことだと思っています。
報道だと戸籍法の改正がなされなかったことに批判もあるようですが、これはあくまでも第一歩ですから。
嫡出性の問題は民法の構造ともかかわりがあるので、ひとまずは相続分の差別が無くなったことを喜ぶべきでしょう。
ボクが学生時代から嫡出でない子の相続分差別規定が問題じゃないだろうかと思っていたのは以下の点です。
一つ目は相続分を差別する規定は法律婚の保護に実効性がないことということです。
法律婚を保護するのに一番効き目があるのは法律で不倫を罰してしまうことで、実際過去には姦通罪なんてものもありました。
但しあまりにも女性に不利な規定でしたが。
現行法でも不倫関係にある者に対する損害賠償が認められているので、それで十分だとも言えます。
差別規定はそもそもキリスト教由来の一夫一婦制度に側室制度を入れ込むことを目的に作られたものです
(毎日新聞の12月4日付の社会学者山田昌弘氏のコラムを参照ください)。
したがって不倫関係を止めさせる実効性は最初からありません。
ボクは学生時代からこの規定は矛盾だらけだと思っていました。
第二に生まれによる差別は容認しがたいことです。
でもこの意見に対しては「差別撤廃を美談にするな」という批判もあります。
そこでボクはこんな線引きを考えます。
生まれによる差別、というか区別には様々なものがあります。
例えば親の財産の多寡だったり、生まれた国だったり、所属する民族だったり、宗教だったり、肌の色だったり。
これらは親の都合によって左右されます。但しその状況を本人の努力で変更できるものとそうでないものがあります。
例えば親の財産が少なくても、本人の努力でお金持ちになることは十分可能です。
国籍も難しいところはありますが、やはり努力次第では変更することができます。
宗教は場合によってはリスクを伴いますが、これも変更することは可能でしょう(但し宗教は信仰あるいは内心の自由との問題をはらみます)。
民族はどうでしょう。国籍は変えられても出自は変えることは困難です。
民族差別はユダヤ人やロマ人に対して行われてきましたが、これが大きな問題を含んでいるのはナチスドイツの例を見ても明らかです。
肌の色は言うまでもありませんね。マイケル・ジャクソンみたいな人もいますが、肌の色は変えられないのが共通認識です。
そして肌の色で差別することは今日では絶対に容認されません。
さて嫡出でない子という身分はどうでしょうか。実は嫡出子という身分は後に取得することが可能です。
例えば(男)親が認知して、かつ(女)親と婚姻すること、あるいは嫡出でない子を養子に迎えること、です。
でもこれは本人が努力してできることとは言えません。どちらも親の協力なしには成しえません。
ボクは、肌の色や民族ほどではないにせよ、自らの努力では変更できない嫡出でない子たる身分によって差別されるのは基本的に不合理だと考えます。
また嫡出でない子というのは法律が作った身分に過ぎません。その身分に基づいて差別するには相当な合理性がなければなりません。
相続分の差別規定自体が一夫一婦制度と側室制度の妥協にすぎない以上、確たる合理性があるとは言えないでしょう。
ボクなんかはむしろ法律婚保護を貫徹させるなら嫡出でない子に相続の権利や認知請求権を認めるべきではない、と思うんですけれどね。
何故保守的な人は現状のシステムを残そうとしているのか不思議でならない。整合性という点では非常に醜い制度なのに。
まあボクは法律婚の保護なんてそこまで貫徹すべき意味合いは無いと思っているので、差別規定さえなければそれで十分だとは思います。
所詮現在の法律婚なんてキリスト教由来の一夫一婦制が元になっているんであって、別に日本古来の伝統でも何でもないんです。
そりゃキリスト教みたいに神の前での誓いは絶対だ、ってんなら嫡出でない子なんて存在すら許されないでしょう。
そもそも離婚も認めないというような時代もあったくらいですから。そういう時代の考えを引き摺ってきたのが相続分の差別規定だったわけです。
法律婚の保護も離婚を認めるように緩やかになってきたように、相続分の差別も整合性の無い不合理なものになった。
もっと言ってしまえば嫡出でない子に対しても親として平等に責任を持つよう求められる時代になったということです。
これって倫理的には差別を温存しておくよりも正しいことだと思うんですけれどね…。
ちなみに、嫡出でない子の相続分差別が撤廃されると配偶者が害される、という意見があります。
でもこれって事実誤認なんじゃないでしょうか。
相続分差別が撤廃される前と後で配偶者の相続分(子がいるときは相続財産の二分の一)に変化はありません。
差別撤廃によって相続分が減らされる可能性があるのは嫡出子だけです。
また嫡出でない子の相続分は増えるだけで、元々相続人であることには変わりありません。
相続人でない者が相続人になるのであれば問題が起きる、とは考えやすいのですが、今回はそういう場合には当たりません。
配偶者が害される虞れがあるのは実子でも婚外子でも実際は同じなのです。
この辺、ボクは相続手続きを経験したので、よくわかります。
嫡出でない子の相続分差別が撤廃されると配偶者が害されるという意見は、机上の空論以前の屁理屈でしかないでしょう。
配偶者の保護は実子がいても婚外子がいても考えなければならないことなのです。
それを嫡出でない子の相続分差別の撤廃と結び付けるのは適当ではありません。
ボクはン年も前に法学部に通っていて、その頃から嫡出でない子の相続分が問題になっていました。
で、先ごろの相続分の規定について違憲判決が下り、それをうけて民法の改正案が成立しました。
まあこれについては色々な意見があるのでしょうけれども、ボクは歓迎すべきことだと思っています。
報道だと戸籍法の改正がなされなかったことに批判もあるようですが、これはあくまでも第一歩ですから。
嫡出性の問題は民法の構造ともかかわりがあるので、ひとまずは相続分の差別が無くなったことを喜ぶべきでしょう。
ボクが学生時代から嫡出でない子の相続分差別規定が問題じゃないだろうかと思っていたのは以下の点です。
一つ目は相続分を差別する規定は法律婚の保護に実効性がないことということです。
法律婚を保護するのに一番効き目があるのは法律で不倫を罰してしまうことで、実際過去には姦通罪なんてものもありました。
但しあまりにも女性に不利な規定でしたが。
現行法でも不倫関係にある者に対する損害賠償が認められているので、それで十分だとも言えます。
差別規定はそもそもキリスト教由来の一夫一婦制度に側室制度を入れ込むことを目的に作られたものです
(毎日新聞の12月4日付の社会学者山田昌弘氏のコラムを参照ください)。
したがって不倫関係を止めさせる実効性は最初からありません。
ボクは学生時代からこの規定は矛盾だらけだと思っていました。
第二に生まれによる差別は容認しがたいことです。
でもこの意見に対しては「差別撤廃を美談にするな」という批判もあります。
そこでボクはこんな線引きを考えます。
生まれによる差別、というか区別には様々なものがあります。
例えば親の財産の多寡だったり、生まれた国だったり、所属する民族だったり、宗教だったり、肌の色だったり。
これらは親の都合によって左右されます。但しその状況を本人の努力で変更できるものとそうでないものがあります。
例えば親の財産が少なくても、本人の努力でお金持ちになることは十分可能です。
国籍も難しいところはありますが、やはり努力次第では変更することができます。
宗教は場合によってはリスクを伴いますが、これも変更することは可能でしょう(但し宗教は信仰あるいは内心の自由との問題をはらみます)。
民族はどうでしょう。国籍は変えられても出自は変えることは困難です。
民族差別はユダヤ人やロマ人に対して行われてきましたが、これが大きな問題を含んでいるのはナチスドイツの例を見ても明らかです。
肌の色は言うまでもありませんね。マイケル・ジャクソンみたいな人もいますが、肌の色は変えられないのが共通認識です。
そして肌の色で差別することは今日では絶対に容認されません。
さて嫡出でない子という身分はどうでしょうか。実は嫡出子という身分は後に取得することが可能です。
例えば(男)親が認知して、かつ(女)親と婚姻すること、あるいは嫡出でない子を養子に迎えること、です。
でもこれは本人が努力してできることとは言えません。どちらも親の協力なしには成しえません。
ボクは、肌の色や民族ほどではないにせよ、自らの努力では変更できない嫡出でない子たる身分によって差別されるのは基本的に不合理だと考えます。
また嫡出でない子というのは法律が作った身分に過ぎません。その身分に基づいて差別するには相当な合理性がなければなりません。
相続分の差別規定自体が一夫一婦制度と側室制度の妥協にすぎない以上、確たる合理性があるとは言えないでしょう。
ボクなんかはむしろ法律婚保護を貫徹させるなら嫡出でない子に相続の権利や認知請求権を認めるべきではない、と思うんですけれどね。
何故保守的な人は現状のシステムを残そうとしているのか不思議でならない。整合性という点では非常に醜い制度なのに。
まあボクは法律婚の保護なんてそこまで貫徹すべき意味合いは無いと思っているので、差別規定さえなければそれで十分だとは思います。
所詮現在の法律婚なんてキリスト教由来の一夫一婦制が元になっているんであって、別に日本古来の伝統でも何でもないんです。
そりゃキリスト教みたいに神の前での誓いは絶対だ、ってんなら嫡出でない子なんて存在すら許されないでしょう。
そもそも離婚も認めないというような時代もあったくらいですから。そういう時代の考えを引き摺ってきたのが相続分の差別規定だったわけです。
法律婚の保護も離婚を認めるように緩やかになってきたように、相続分の差別も整合性の無い不合理なものになった。
もっと言ってしまえば嫡出でない子に対しても親として平等に責任を持つよう求められる時代になったということです。
これって倫理的には差別を温存しておくよりも正しいことだと思うんですけれどね…。
ちなみに、嫡出でない子の相続分差別が撤廃されると配偶者が害される、という意見があります。
でもこれって事実誤認なんじゃないでしょうか。
相続分差別が撤廃される前と後で配偶者の相続分(子がいるときは相続財産の二分の一)に変化はありません。
差別撤廃によって相続分が減らされる可能性があるのは嫡出子だけです。
また嫡出でない子の相続分は増えるだけで、元々相続人であることには変わりありません。
相続人でない者が相続人になるのであれば問題が起きる、とは考えやすいのですが、今回はそういう場合には当たりません。
配偶者が害される虞れがあるのは実子でも婚外子でも実際は同じなのです。
この辺、ボクは相続手続きを経験したので、よくわかります。
嫡出でない子の相続分差別が撤廃されると配偶者が害されるという意見は、机上の空論以前の屁理屈でしかないでしょう。
配偶者の保護は実子がいても婚外子がいても考えなければならないことなのです。
それを嫡出でない子の相続分差別の撤廃と結び付けるのは適当ではありません。