現在伯母が住む福島の家は母方の祖父母がボクが生まれるより前に買った土地に建てたものだ。ボクは生まれて以来その家に度々遊びに行っていた。最初こそなかなか慣れなくて毎日「所沢に帰りたい」と言っていたそうだ(ボクは幼かったので覚えていない)。しかし祖父母が東京での生活を終えて福島を終の棲家とした頃にはすっかり慣れて、学校が長い休みになる度に福島の家に行って大好きな祖父母に会うのが楽しみであった。
大人になって少しずつ福島に行く機会も少なくなった。祖父母が年を取ってボクらのような客人を迎えるのが大変になってきたからだ。伯母が祖父母と同居することになってからはまた気兼ねなく福島の家に行くことができるようになったのだが、その頃はボクも福島の家にいる時はなるべく家事の手伝いをするようになっていた。
祖父の死期が近くなったのを知らされて、ボクは福島の家に常駐することになった。それから数か月と経たないうちに祖父が亡くなり、そしてあの震災が起きた。生まれて初めて経験した大きな地震。でもボクにとってそこは不慣れな土地ではなかった。何となくではあったけれども顔見知りのご近所の人たちが何かと不便があれば助けてくれたのだ。震災で大事なものを失った人達は多くいたけれども、ボクが失ったものはせいぜい時間だけで、とても恵まれた環境にいたのだ。
所沢に帰ってきて、しばらく福島の家とは距離を置くことになった。震災の疲れもあったけれども、何より祖父の相続問題の解決に奔走しなければならかったのが辛かったのだ。しかし祖母が不治の病に倒れて介護が必要になったことで再び福島を訪れなければならなくなってしまった。祖母の介護と死、そして相続問題はボクに決定的なダメージを与えることになったのだが、それでも福島は行く度に良い所だと感じるようになった。とても皮肉なことだけれども、祖父母が亡くなって、初めて福島の自然や街をのんびりと楽しむ機会が得られるようになったのだ。何故なら祖父母がいた頃は祖父母と会うが楽しみで、福島の土地の面白さに気を留める必要がなかったからだ。
ところがようやく福島の面白さに気付いた頃、母親が病気に罹ってしまった。遠出が難しくなり、吾妻山の縦走をした時以来、一度も福島には訪れていない。あれからもう4年以上経ってしまった。新幹線を使えば所沢からわずか2時間余りの距離が今はとても遠い。福島が恋しい。でも今はもう少し我慢しよう。母と再び福島の街を歩ける日を願って、今は待つしかないのだ。
大人になって少しずつ福島に行く機会も少なくなった。祖父母が年を取ってボクらのような客人を迎えるのが大変になってきたからだ。伯母が祖父母と同居することになってからはまた気兼ねなく福島の家に行くことができるようになったのだが、その頃はボクも福島の家にいる時はなるべく家事の手伝いをするようになっていた。
祖父の死期が近くなったのを知らされて、ボクは福島の家に常駐することになった。それから数か月と経たないうちに祖父が亡くなり、そしてあの震災が起きた。生まれて初めて経験した大きな地震。でもボクにとってそこは不慣れな土地ではなかった。何となくではあったけれども顔見知りのご近所の人たちが何かと不便があれば助けてくれたのだ。震災で大事なものを失った人達は多くいたけれども、ボクが失ったものはせいぜい時間だけで、とても恵まれた環境にいたのだ。
所沢に帰ってきて、しばらく福島の家とは距離を置くことになった。震災の疲れもあったけれども、何より祖父の相続問題の解決に奔走しなければならかったのが辛かったのだ。しかし祖母が不治の病に倒れて介護が必要になったことで再び福島を訪れなければならなくなってしまった。祖母の介護と死、そして相続問題はボクに決定的なダメージを与えることになったのだが、それでも福島は行く度に良い所だと感じるようになった。とても皮肉なことだけれども、祖父母が亡くなって、初めて福島の自然や街をのんびりと楽しむ機会が得られるようになったのだ。何故なら祖父母がいた頃は祖父母と会うが楽しみで、福島の土地の面白さに気を留める必要がなかったからだ。
ところがようやく福島の面白さに気付いた頃、母親が病気に罹ってしまった。遠出が難しくなり、吾妻山の縦走をした時以来、一度も福島には訪れていない。あれからもう4年以上経ってしまった。新幹線を使えば所沢からわずか2時間余りの距離が今はとても遠い。福島が恋しい。でも今はもう少し我慢しよう。母と再び福島の街を歩ける日を願って、今は待つしかないのだ。