暫く経つと、母もまだ若かった事もあり、周囲が母の再婚の話で動きだした。
候補は幾つかあった。
母にはその気持ちがなくとも、周りが動けば逆らうことは当時はできなかった。
しかしそこで大きな問題があった。
最愛の娘との別れであった。
母も徳川家で育った人間として、家が背負った歴史の重みは十分心得ていた。
しかし、やはり母親としての感情の方が家よりも勝るのが女の性である。
渋る母を、徳川家と松平家で説得され娘は松平家に残り、母だけが離籍する事となった。
母が身を引くことで、連綿と続く松平家の「葵の御紋」を後世に残していくことが出来たと考える事にした。
昭和22年12月母は、成城高校の同級生の井手次郎と再婚する事となった。
当時の日本の状況下では盛大にとはいかず、ささやかな結婚式を挙げた。
約2年間、目白の自宅で25人で共同生活をしたのち、横浜に移り住む。
そこで小さな医院を開院。
外科医としての父の手伝いをする。
徳川おてんば姫(東京キララ社)
候補は幾つかあった。
母にはその気持ちがなくとも、周りが動けば逆らうことは当時はできなかった。
しかしそこで大きな問題があった。
最愛の娘との別れであった。
母も徳川家で育った人間として、家が背負った歴史の重みは十分心得ていた。
しかし、やはり母親としての感情の方が家よりも勝るのが女の性である。
渋る母を、徳川家と松平家で説得され娘は松平家に残り、母だけが離籍する事となった。
母が身を引くことで、連綿と続く松平家の「葵の御紋」を後世に残していくことが出来たと考える事にした。
昭和22年12月母は、成城高校の同級生の井手次郎と再婚する事となった。
当時の日本の状況下では盛大にとはいかず、ささやかな結婚式を挙げた。
約2年間、目白の自宅で25人で共同生活をしたのち、横浜に移り住む。
そこで小さな医院を開院。
外科医としての父の手伝いをする。
徳川おてんば姫(東京キララ社)
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