徳川慶喜log~徳川と宮家と私~

徳川慶喜家に生まれた母久美子の生涯、そして私の人生。

私・井手純~二度目の東京オリンピック⑤~

2020-03-16 05:00:00 | 日記
  2020年 二度目の”東京オリンピック”

平成31年4月平成天皇は上皇となり新年号”令和”となった。
昭和からの平成とは異なりお祝いムードで国民は沸き立っていた。
昭和生まれの私にとっては何か異様な感じであった。
しかし、平成天皇がお元気で上皇になられ、皇太子殿下が令和天皇になられたことは誠に喜ばしい事と思った。

翌年には2度目の東京オリンピックを控え、何となくまた騒がしくなって来た。
新しい国立競技場の建築、築地市場も何とか豊洲に移り、その近辺にはニョキニョキと高層マンションがたちならんだ。
56年前の東京オリンピックの頃とは東京も全く様変わりしており、この半世紀以上の間には思い起こせば天災、人災と様々な悲劇が数え切れないほどあった。

第2次世界大戦の敗北から20年で何とか立ち直った当時の東京オリンピックとは、全く違う感覚を感じるのは私だけだろうか。
確かに人類の飛躍的な発展により通信機器の普及、車の高性能化、いずれはリニアモーターカーで東京、大阪間を1時間で行けるようだが、あまり嬉しく感じないのは歳をとっただけのせいではない気がする。

とは言え、決まったことに反対する気持ちは全く・・・ない。
むしろ前回の東京オリンピックを上回る大会になって欲しいと思っている。
私の姪もボランティアに登録し、とても張り切っている。

温暖化による世界の天候不順、日本も例外ではない。
夏が長くなり、秋が短くなった。
おかげで東京オリンピックのマラソンは札幌開催になった。
冬にコートの不要な暖かな日がありスキー場が雪不足で困っている。
日本でも確実に世界と同じ波が訪れている。
1月に入り突然中国・武漢のコロナウィルス感染が世界的に確認され中国で大規模な規制が起こっている。
日本人でも感染者が出た。
中東とアメリカがあわや戦争かという爆撃や挑発をしている。
英国はEUを離脱した。

世界情勢は56年経った今も目まぐるしいが、だからこそ二度目のオリンピックは、本来の世界平和の祭典として前回以上の記憶に残る大会になってほしい。
世界の方々が東京に来て、日本のすばらしさを知ってもらいたい。
大会での日本人選手の活躍と大会が盛大にそして無事に終わることを、一度目のオリンピックを体験した者として心から祈っている。

2020年7月24日からは、おそらく連日テレビの前で観戦しているだろう。

徳川おてんば姫(東京キララ社)


私・井手純~二度目の東京オリンピック④~

2020-03-09 05:00:00 | 日記
10月9日に各地を回っていた4基の聖火は皇居前に到着した。
そして遂に10月10日快晴の中開会式となった。①の記事にも記してあるがボーイスカウトのボランティアで私はこの日まで何回も当日の各国の国旗を揚げる練習をしていた。
朝早く国立競技場に行き、先ずは観客の入場時に五輪のマークが描かれたアルミ製の筒型携帯灰皿を配った。
この頃は喫煙が当たり前だった。
その後自分の揚げる国旗を預かり競技場のポールの所にいた。

あれ程国民に無関心であったオリンピックもいざ始まると日本中が一色に染まった。
自衛隊のブルーインパルスによる5色の五輪の輪は大空にものの見事に成功した。
後で知ったのだが、練習では一度も成功しなかったそうであった。
その素晴らしさは今でも目に焼き付いている。

競技場の上から見た観客の多さに驚いたことも良く覚えている。
周りに合わせて無事国旗を揚げ終わったときは感無量だった。

その後、競技は連日始まり街なかでは街頭テレビの前には黒山の人、人であった。特に最終日のマラソンと、女子の日紡貝塚とロシアのバレーボールの決勝戦は視聴率なんと85%だったという。
3-0で日本が優勝した時は恐らく日本中大騒ぎだったと思う。

そんなドタバタからの熱狂と共に、56年前の東京オリンピックは大成功の内に幕を閉じた。

オリンピックが終わったあとの東京はまさしく”兵どもの夢のあと”であった。
大勢の外国人観光客は去り、選手村も閑散となり、都民はまた前の生活に追われていった。
物価はどんどん上がり、庶民の生活はまた苦しくなった。しかし、オリンピックのお陰で日本中が良く変わったのも事実であると思う。
私は、今年70歳になるが半世紀以上前の東京オリンピックの時、今の私の年代の人は戦争に疲れ多分お祭り気分になれなかった気持ちが少しだけ分かる気がする。

徳川おてんば姫(東京キララ社)


私・井手純~二度目の東京オリンピック③~

2020-03-02 05:00:00 | 日記
オリンピックの年、1964年。

東京でのオリンピックが決まり、あっという間に5年がたち東京は様変わりした。
さあ、オリンピックの年と思ったが国民はほとんど関心が無く日々の生活におわれていた。
6月は空梅雨で、8月には東京の水がめである小河内ダムは満水時の僅かに1・8%で、東京はついに12時間の断水になった。
まさに東京砂漠!オリンピックどころの騒ぎではなかった。
毎日毎日水を求めてそれはそれは大変であった。

しかし8月末に突然大雨が降り、東京砂漠は解消された。
この頃千住の有名な”お化け煙突”が取り壊され、佃大橋が開通し佃の渡し船も姿を消した。
9月になると聖火が沖縄に到着し、この時期まだ本土復帰されていなかった為本来は日の丸を振ることはできなかったのだが、オリンピックという事で特別に許されたと後に聞いた。
10月1日には新幹線開業となり、武道館の完成やホテルニューオータニなどが出来上がり、やっとオリンピックムードになり始めた。

徳川おてんば姫(東京キララ社)