徳川慶喜log~徳川と宮家と私~

徳川慶喜家に生まれた母久美子の生涯、そして私の人生。

私・井手純 〜徳川家とのおつきあい⑥~

2019-06-29 05:00:00 | 日記
森村学園中等科・高等科すべて一学年一クラスの少人数制であった。
女子校のほうが人数も多く一般には女子校と思われていた。
校風としては、のびのびとした学園であった。
50人弱の教室で、私だけ違う制服を着て後ろの席にいると最初の授業が始まった。
先生が来られるまではほとんどの生徒は席につかずとにかく、ガヤガヤしていた。
先生が入って来られてやっと静かになった。
こんなことはいままでは無かったので驚いた。

先生は出席を取り始めた、と、その時突然私の方を見て 「なんだ!一人変な奴がいるな!ちょっと前にこい! 」と言われた。
驚いたの何の、オドオドしながら前に出ていくとその先生は私の肩を抱き 「今日からうちの生徒になった。自己紹介をしなさい。」よく覚えていないが、自分の名前だけ言って席に戻った。
あまりにも先生の態度が今までと違うのには面食らった。
その後、何もなかったかのように授業は淡々と進んで行った。

驚いたのは、学習院であった。
学期途中で転校するにはキチンと理由を上に説明しなければならなかったようで、大騒ぎになった。
母のところに何とか戻って欲しいと何度も何度も頼みに来ていた。
少なくとも3学期が終わるまではいてくださいと言っていたようだ。
母は頑として受け入れなかった。
母があんなに怒ったのは多分生涯一度だけだったのかもしれない。〖数か月後、前回記事で書いた万年筆盗難事件の真犯人は見つかった。〗

その後、慶朝とは毎日学園で顔を合わせたが、一緒に通学したことは一度もなかった。
なぜかは全く憶えていない。
森村学園に移ったことで残りの学園生活はのびのびと楽しくすごせた。
私の弟は私のこともあり、中学から他の学園に行くことになった。

徳川おてんば姫(東京キララ社)

私・井手純 〜徳川家とのおつきあい⑤~

2019-06-28 05:00:00 | 日記
一方、いとこの慶朝は、初等科から私立森村学園に行っておりそのまま中等科へ進んでいた。
慶朝は2月生まれ、私は12月生まれのため学年は私が一つ下だった。

私が中等科一年の3学期が始まったばかりの時にある事件が起きた。
それは2学期の頃より、体育の時間の時に起きていた。
皆制服から体操服に着替えた。
私の席の周りの生徒は皆舶来の万年筆を持っていた。
それが、次々に盗難にあっていた。
私は国産の普通の物しか持っていなかったので被害にあわなかった。
それで疑われたのか、ある日母が学校に呼び出しを受け事情を聴かれた。
ようするに、犯人扱いされたのだ。

一方的な話に母は激怒してその日の夕刻、すぐに森村学園長に話をした。
学園長の森村義行氏とは面識もあり、慶朝も通っていたので話はしやすかったのだと思う。
学園長は話を聞いて「明日から来させなさい」と言って下さった。
何もわからず私は学習院の制服で、《翌日》から森村学園中等科へ行くことになった。

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私・井手純 〜徳川家とのおつきあい④~

2019-06-27 05:00:00 | 日記
(前回記事の続き)
水泳教室と言ってもかなり厳しいもので、ほとんど毎日試験があり、8級~1級まであった。
特に自信があったわけではないのだが、毎回の試験は次々に合格していった。
試験は、遠泳10㎞・潜水75m・順華(3mの高さから海面に垂直に飛び下り頭を潜らないようにする救助の一つ)試験の名前は忘れたが、3~4mのところに沈めた石を拾い上げ、立ち泳ぎでその石を手首から上に持ち上げて小舟の周りを一周するもの。
とキツイ試験ばかりであった。
ほとんどが、救助のための試験だった。
まだ他にもあったと思うが記憶にない。

夏休みが終わり2学期が始まった時、最初の授業でほとんど口を聴いたことの無い担任から私を名指しで前に呼び出された。
その担任はニコニコしながら、みんなの前で「井手君は見事に1級の試験に合格した。」と、褒められた。
学年で2名だけだったそうである。
褒められたのは最初で最後のことだった。

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私・井手純 〜徳川家とのおつきあい③~

2019-06-26 05:00:00 | 日記
私は学習院初等科を卒業後、目白の中等科に進んだ。
初等科は男女共学だったが中・高等科は男子校である。
校内の雰囲気はガラッと変った。
特に私の組の担当教員は常に制服を着ており、昼食時も生徒と一緒に食事をした。
ほかの組は自由に動き回りながら食べていたのがとても羨ましく思えた。
我々の組は特別だったようだった。
担当の先生は成績の悪い生徒とは、ほとんど口を聞いてくれなかった。

夏休み期間に沼津にて毎年恒例の水泳教室があった。
当時は皆赤ふん(赤のふんどし)をしめるのが通例であり、まずはふんどしの〆方から教わった。
勿論ふんどしなど初めてのことで恥ずかしいより、珍しい気持ちの方が強かった。

徳川おてんば姫(東京キララ社)

私・井手純 〜徳川家とのおつきあい②~

2019-06-25 05:00:00 | 日記
当時、ご主人の(母の兄慶光)は、私が物心ついたころ、ある事情でブラジルへ行っていたので”ともちゃん”にはお父さんが居ないのだと思っていた。
5月のこどもの日には庭に5~6メートルの柱を立て鯉のぼりが作られた。
それがとても羨ましかった。
後に分かったのだが慶光の姉である喜久子妃殿下が父親の居ない慶朝の為に作られたものであったことを知った。

ともちゃんは、あまり活発な子では無かった。
私と弟は夏休みのほとんどは宮家のプールで過ごしたが、誘いに行っても三度に二回は断られたように記憶する。
ある秋の日、3人で近くの高松中学校に潜り込み、もいだ柿をかじりながら校庭の周りの山の上を散策していた。
そこは木々に囲まれており、その木々の間から校庭で体操の授業をしている生徒たちが見おろせた。
悪ガキの私は、食べかけの柿をその校庭に向かって投げ込んだ・・・
そのまま、ぶらぶらと散策をしていると、体操をしていた中学生が我々に向かって十数人駆け上って来た。
私が投げ込んだ柿が先生に当たった様で、おそらく先生の指示で一斉に捕まえに来たのであった。
それに気が付いた我々は、慌てて逃げ出したが、小学生の3人はあっという間に捕まえられ、先生のところに連れていかれ懇々と怒られた。
ともちゃんと弟は私の巻き添えになってしまった。

徳川おてんば姫(東京キララ社)