父井手次郎はこの手記を書き始めた頃(昭和51年頃)記載出来ない悲惨な出来事などを色々思い出し、よく私井手純に話してくれた。
その一部を書いてみる。
父は軍医であった為、直接戦闘には加わらず、つねに目を凝らして上空の戦闘機、地上軍の銃撃戦をみていた。
訓練では何度も銃を打ったが、実戦では無かった。
戦闘員が打たれると状況を確認しすぐに駆けつけ医務室に運び治療をする。
ある時、上空の敵戦闘機が被弾しパイロットが脱出しパラシュートを開こうと試みるも開かず150メートルぐらいの所から滑走路の真ん中に叩き付けられたのを目撃。
父と医務隊員2人の3人で大きなバケツとシャベルを持って駆け付けた。
勿論即死だったが、その遺体は頭が畳半畳ぐらいにペシャンコになっており、仕方なくシャベルで何度もすくいバケツに入れる。
体の骨は粉々でとても一人では持てず3人で抱えて布製の袋に詰め込み運び戻った。
その間も銃撃戦は続いた。
気持ち悪いとか怖い気持ちは全くなく、とにかく早く陣地に戻ることしか頭に無かった・・・・と語っていた。
この様な尋常でない出来事は数え切れないほどあった。
悲しんだりしている暇などなく、まさしく、地獄・地獄であった。
こののち益々戦闘が激しくなって行く・・・。
徳川おてんば姫(東京キララ社)
その一部を書いてみる。
父は軍医であった為、直接戦闘には加わらず、つねに目を凝らして上空の戦闘機、地上軍の銃撃戦をみていた。
訓練では何度も銃を打ったが、実戦では無かった。
戦闘員が打たれると状況を確認しすぐに駆けつけ医務室に運び治療をする。
ある時、上空の敵戦闘機が被弾しパイロットが脱出しパラシュートを開こうと試みるも開かず150メートルぐらいの所から滑走路の真ん中に叩き付けられたのを目撃。
父と医務隊員2人の3人で大きなバケツとシャベルを持って駆け付けた。
勿論即死だったが、その遺体は頭が畳半畳ぐらいにペシャンコになっており、仕方なくシャベルで何度もすくいバケツに入れる。
体の骨は粉々でとても一人では持てず3人で抱えて布製の袋に詰め込み運び戻った。
その間も銃撃戦は続いた。
気持ち悪いとか怖い気持ちは全くなく、とにかく早く陣地に戻ることしか頭に無かった・・・・と語っていた。
この様な尋常でない出来事は数え切れないほどあった。
悲しんだりしている暇などなく、まさしく、地獄・地獄であった。
こののち益々戦闘が激しくなって行く・・・。
徳川おてんば姫(東京キララ社)