徳川慶喜log~徳川と宮家と私~

徳川慶喜家に生まれた母久美子の生涯、そして私の人生。

私・井手純~二度目の東京オリンピック②~

2020-02-24 05:00:00 | 日記
東京オリンピックが決まった途端に世界が一変した。
開催日まで5年!この5年で今までの静かな東京は一気に騒がしく変わった。
狭く、常に渋滞がひどかった一般道路に対応し、高速道路が次々にできた。
時間が無い為用地買収も間に合わず、仕方なく”水の都東京”の川という川の中に柱を立てその上に道路を作って行った。
日本橋の真上にも巨大な道路が覆いかぶさり、徳川慶喜の書いた”日本橋”の字も無惨に日の当たらない所に追いやられてしまった。

しかし、その頃の東京の川などは”水の都”とはほど遠いひどいものだった。
”水の都東京”は戦前の話でその時はまるで下水道であった。
ごみは投げ捨てられ、その周りの道路は”ゴミを捨てるな”の立て札が埋もれるほどゴミの山だった。

私は小学校中学年の”9歳”であった。
申し訳ないが、ゴミの事には全くの無関心だったが、生ゴミから何からすべてのゴミは分別などはされていなかったと記憶している。
当時の東京は、世界でも有数のゴミ都市で本当に酷かった。
そこで当時の東龍太郎東京都知事は毎月10日を美化dayとして約200万人の都民を動かし、尚且つ自衛隊員までも起用しゴミ処理を徹底した。
その効果は絶大で今ほどではないにしてもかなり結果は出た。

高速道路のおよそ30キロ建設は恐るべき速さで進み、それに続き新幹線、モノレール、競技場建設、東洋最大のホテルニューオータニ等々最新の技術を駆使し5年で東京は生まれ変わっていった。
しかし、連日突貫工事のけたたましい騒音が続いた。
都内のどこを見ても工事工事だった。

徳川おてんば姫(東京キララ社)

私・井手純~二度目の東京オリンピック①~

2020-02-17 05:00:00 | 日記
1964年10月10日 日本初のオリンピックが東京で開催された。
当時私は中学2年生であった。

その当時、ボーイスカウトに入っていた私は、なんと開会式の国立競技場におり競技場を取り囲むように立てられた世界中の国旗を揚げるポールの一つの所に立っていた。
残念ながらどこの国の国旗を担当したか記憶にないが、物凄い数の観衆に圧倒され、かなり緊張していた。
合図と共に国旗を周りに合わせながら無事に揚げ、聖火入場を競技場の上から眺めていたのは、今でもはっきりと覚えている。

東京にオリンピックが決まったのは1959年(昭和34年)だった。
敗戦から何とか立ち直ってほんの少し国民が平和を感じることが出来るようになった頃であった。
しかし、今の鉄筋コンクリートビルが立ち並ぶ東京ではなく、ほとんどが平屋のしかも木造住宅でごみごみしていた。

私の子供の頃には、おでん屋が自転車で売りに来たり、豆腐屋の笛の音が聞こえたり夜になると、近所の飼い犬の遠吠えが聞こえたりして静かなものだった。
大晦日には近くのお寺から除夜の鐘も聞こえていた。
そう言えば、火の用心の夜回りも拍子木と一緒に聞いたのを覚えている。

徳川おてんば姫(東京キララ社)

私・井手純~手術⑨~

2020-02-07 05:00:00 | 日記
私の担当の先生の事も色々そのご夫妻に教えて頂いたが、循環器専門医としてはかなり有名な先生だそうであった。
”私もあなたもいい先生に診てもらうことができてラッキーでしたねぇ”と言われた。
その時昔、父が言っていた話を思い出した。
”白衣を着て医者の格好をしていても、初めてメスを人の身体に入れる先生に当たる事もある。仕方のないこととは言え、運もあるんだ。
”医者としてはベテランになるまでは最初もある訳で本当にこう言った事は運なのかもしれない。
とにかく現在は本当に良くなり楽に歩けるようになった。
それでも元に戻っただけの事。
本当に健康には日々気をつけねばと今更ながら思い知った。
若さに任せて健康に変な自信があるとこんな事になると痛感した。
主治医の先生は初めて診てもらった時は何か冷たい感じの人であったが、3度目の手術が終わり12月25日術後の検査が終わったあとの問診の時、体調が良くなった事を伝えお礼を言うと、突然私の手を握りしめて今まで見なかった笑顔で”本当に良かったですね!”と言ってくれた。

その時の笑顔が今も忘れられない。
本当にありがとうございました。
年の瀬も押し詰まったとき、私は買い物に出かけた。
灯油18リットルと食材、飲み物等々5キロほど持ち現在の自宅に戻った。
自宅はマンションの9階。
エレベーターホールまでたどり着くと、なんとエレベーター点検中のふだが貼ってありエレベーターは止まっていた。
少しの間待つも動く気配がない。
仕方なく灯油と食材を持って意を決して(すこし大袈裟であるが)階段にて上がり始めた。
途中で何度か休み休みではあったが、何とか230段上がり切った。
息も上がり膝もがくがくだったが辿り着いた。
部屋についたとき何かとても良い気分だった。
数か月前は20歩も歩けなかったのだから・・・・・感謝、感謝。

私・井手純~手術⑧~

2020-02-05 05:00:00 | 日記
三度目の手術
11月25日病院に行った。
どうか三度目の正直であってくれと思いながら、またその日の午後から手術は始まった。
例のごとくブルーシートがかけられいつも道理の手順でスタート。
突然顔の上のブルーシートに血しぶきが飛び散った。
3センチぐらいの血が10位目の前にあった。
焦った。
身体が固くなった。
ところが先生は淡々と見学の先生に話しながら手を進めていた。
そのせいかなんか少し身体の力が抜けるのが分かった。
その後は特に変化はなく無事終わった。
今回の手術の後若い先生が動脈に入れた管を抜きにきたので”先生抜いた管みせてくれませんか?”と頼み見せてもらった。
約20センチほどの棒状の細い管だった。
この時はまだ麻酔がきいていたので痛みは無く何となく自分も余裕があった。
術後の止血にはいつもどうり時間がかかったが、その時も特に痛みもなくベットのまま部屋に運ばれた。
部屋についてからは暫く安静にしていたが、ホットした。
この数ヶ月の間に3回も手術をしたことは自分にとってはかなり衝撃であった。
3度目の手術が終わってから一ヵ月後、術後の検査で病院に行った。
やはり丸半日かかった。
その待ち時間中に話しかけた老夫婦と先生が同じだった事もあり2時間程色々な話をした。
ご主人が私と同じ動脈硬化で尚且つ透析を20年つずけているそうで一日おきに約4時間つずけているとのこと。
聞けば聞くほど大変な苦労をされていたのである。

私・井手純~手術⑦~

2020-02-03 05:00:00 | 日記
二度目の手術
退院から2週間後の8月9日、入院しその日の午後から手術が始まった。
前回の痛さや恐怖が冷めやらず気が重かった。
今回は右足の動脈にステント(金属の筒)を入れる手術であった。
ステントは一度入れたら生涯取り出せないそうである。
その代わり血流が良くなるとの事だった。
午後1時すぎには手術室にいた。
前回と同じく顔の上にステンレスのアーチがかけられブルーシートが視界を遮った。
局部麻酔が打たれ先生の指示とガチャガチャと器具の音が聞こえていた。
今回はあまり痛みを感じない。
”慣れたのかな”なんて勝手に考えているうちに手術は終わった。
あっという間だった。
前回の様に、また長い時間動けないのかなとも思った。
しかし、思ったほど厳しくなく何か気が抜けてしまうほどであった。
止血も短時間ですみありがたかった。
と言うのも、今回の手術は左の動脈から右足の動脈に繋げる途中の丁度へそ右下10㎝ぐらいの所にステントを入れるものだった。
翌日には午前中に退院の許可が出て自宅に戻れた。
その際術後に痛みもなく、ま、傷口を触れば多少の痛みはあるもののとにかくホットした。
しかしもう一度今度は最初に手術した左足にステントを入れる事になった。
約2ヶ月後に手術日が決まった。
その間確かに普通に歩けるようになったのだが、自宅で椅子に座っていると左足の足首から先が何とも言えないチクチク痛んだ。
二度目の手術の後、術後検診に1ヶ月経ってから先生から説明を受けた。

それによると、血流は治ったがまだ血管内に血栓の塊が動脈の淵に張り付いているのでまたステントを入れるということだった。
さすがに、”またか”と思ったが足首の先、つま先や踵のチクチク感は本当に嫌な痛みだったので我慢して手術を受けることを決
めた。
先生の説明によると、このままにしておくと張り付いている血栓が、今は細かいものがポロポロ落ちているがその内に大きな血栓が落ちたときにまた動脈が塞がれてしまうとの事だった。