数年前、僕もとある掲示板でトラブルを起こしたことがあります。常連さんのコメントについて、当該の掲示板上ではなく、自分自身のサイトで批判をしたのです。反論ではなく、姑息な意趣返し。自分自身では、そういう愚かしさに気づけないものなのですね。他のかたから指摘を受けて初めて、自分のやりかたが間違っていることが判りました。
そのかたにお詫びをして事なきを得ましたが、以降掲示板上でのやりとりについては細心の注意を払っています。
歌手のさだまさしさんが、新聞の連載コラムで事件のことに触れ、こんな内容のことを書いていました。
「死ぬだの殺すだの、めったに言ってはならない言葉がネット上で行きかっていたらしい」
僕も両親から、こうした言葉は決して使ってはいけないと注意されたことがあります。言霊、とでも言えばよいのでしょうか。そうした力を決して侮ってはならない、ということだと思います。
女児たちが使っていたらしい「うざい」という言葉、僕は嫌いです。この言葉にも、相当強い呪いがかかっているように思うのです。人を呪わば墓二つ、ということわざがあります。呪いのかかった言葉を相手に浴びせかける時、その呪いは同時に自分にもかかってしまうのではないでしょうか。
人間の人格は、確固たる存在ではないと思います。それこそ日によって、時間によって、絶えず変化していると言ってもいいでしょう。いつもなら冗談で済むはずのことが、喧嘩の種になってしまった、という経験を僕は何度もしています。実際に相手と会って話していてもなお、こうしたトラブルは後を絶ちません。ましてや、言葉だけのやりとりになってしまう掲示板やチャットでは、なおさら気を遣う必要があるでしょう。
人は一人では生きていけません。無機質な表現かもしれないけれど、仲間を作るための戦略として言葉を使う必要もあるのではないでしょうか。つまり、敵を作らないための言語戦術が必要だということです。
笑いは人間関係を円滑にさせる要素の一つですが、なんでもかんでも笑ってしまえばいいというものでもありません。特に、相手のミスや欠点をあげつらう場合には、細心の注意が必要ではないでしょうか。佐世保の事件でも、「体重が重い」と言われたことが遠因であるという報道がありました。
言われたくないことは、相手にも言わない。それが最低限の原則だと思いますが、他にも話し相手によってはタブーとなることも多々あることでしょう。口は災いの元。親しき仲にも礼儀あり。古人の戒めは、現代でもなお効力を発揮しているのです。
犯人である女児には、しかし自分に向けられた様々な言動を笑い飛ばしてほしかった。相手を許してあげてほしかった。マスターキートン曰く「友人なら許してやれ。今許してやれなかったら、一生許してやれないぞ。」
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