過去7回分をまとめる。世の動きを決める力としては、恐怖の力や情念の力は強く、繰り返して現われるが、その持続期間は短い。長期的には、共同体に技術の力、進化の力、政体の力などが作用して文明が進んできた。その発展の方向は、ヒトの心の中にある「この世はこうあるはず」という思い込み(前提)が決める。その前提が「和」や「友好」である限り、その力がいずれ世界を一つの共同体とする日が来るであろう。(AIに任せることになるかもしれないが・・。)
楽観的すぎるだろうか。しかし、現代の幸福度は過去に比べて明らかに高い。かつては飢餓や病魔には祈るしか術がなく、人力以外の動力は牛馬だけであった。過去の夢物語が技術の力で現実になっている。人道的にも、残虐刑や奴隷制はなくなり、暴力的言動は厳しく糾弾され、国家権力の強権さも軟化している。この幸福度の増進は、脳が生み出した産物を共同体内で継承し、それを世界で共有してきた結果である。これが「和」や「友好」を前提とせずに可能であったろうか。
共同体を活かすには、情と理に加えて智(智慧)が必要である。脳の暴走を制御できるのは、その脳が編み出す智だけである。例えば、情に駆られた攻撃性は、スポーツや映画・物語などの虚構の中に封じ込める。理を極める論争は、現実を認め過去の例を参照して空中戦を避ける。いつの時代の人々も、今の世を嘆き未来を悲観していた。この思考様式こそ、「世界は友好的で調和しているはず(しかし今は違う)」という前提をヒトが持つ証拠でもあろう。
和や友好の前提が実現した世界とは如何なるものか。そこでは、誰もが和と友好を前提として日常生活を送り、国際社会を含むすべての共同体が平和に共存する。個人は自由意思に基づき行動しつつ、それが共同体の維持・発展に役立っている。もちろん小さな波は立つが、大きな波にはならない。人類の優れたる所以は、知的能力より友好能力である。万人の万人に対する戦いを前提としていたのであれば、現世はより残忍な世界になっただろう。
無論その世界は容易に実現しない。しかし、和と友好の前提を意識すれば、世界は違って見える。友好を求めながらその逆の行為に走る人間の愚かさ、これがより鮮明となる。情や理に流され犯罪や闘争に走る姿や、その愚行への対策や後始末に多くの人が追われる不条理や不合理さには、思わず言葉を失う。そして、それが続く限りは、存在を意識し警戒を怠るわけにはいかない。特に法の及ばない国際社会では、武力をもって対処せざるを得ない現実も見えてくる。
理想の共同体が実現しても、死という課題は残る。死後、肉体は無に帰しても魂だけは残るのか、死後の行先は天国なのか地獄なのか、信仰や自己犠牲は天国への手形となるのか・・。死は智の理解を超え、死後の世界は誰にもわからない。死を前にするとは、共同体から切り離された己が只一人、漆黒の洞窟の入り口に立つようなものである。その時、人々は救いを求める。和を前提とする日本には、善行や信心によらず万人は救済されているという教えがある。これは偶然ではないだろう。