この世は様々な力で動いている。恐怖や情念がとかく目立つが、ヒトは和や友好を前提として共同体を形成し、徐々に幸福度を高めてきた。喩えれば、途上にある大小のコブの登降に足を取られながらも、基調は緩やかな登りの長い尾根を歩く様である。今の足許は急な下り坂でも、長く歩いて行けば少しずつ登っているのである。しかし、頂上に達することは恐らく永遠にない。持ち時間は有限で、それが過ぎ去れば万人に死が訪れる。それでも、歩んだ者には救済が待っている。
この歩みで鍵となるのは、自分と他人・共同体との関係である。ヒトは世のために貢献すべきだ(一人では生きられない)と思うが、自由に生きたいとも願っている(共同体や他人は利用するだけ)。この相反関係の究極は死である。死ねば自分にとっての世は終わる。しかし、死後も他人は生き延び共同体は続くに違いない。死ねば共同体や他人とは永久に決別するならば、その未来などどうなってもいいはずである。ところが、そう思えない自分がある。それが救いの証なのだろう。
多数の共同体のなかで最も重要なのは国である。国を治める者は、国民の情や理に思いを致すとともに、現実を解決してゆくために、智(智慧)を使いこなす必要がある。智の視野は、現在だけでなく過去と未来に及ばなくてはならない。例えば、たかが80年前にあった危機すら、現代の日本人は忘れかけている。先を見れば、大災害、核戦争、覇権国の崩壊などがありうる。しかし、何があろうと、人々の前提とする世界観が時間をかけて体現していくことになる。
国際感覚がないと言われても、ここで日本の和の心を見直してみたい。わが国は半閉鎖的な島国で、豊かな自然に恵まれ、文化的にも民族的にも長く均一性を保ってきた。このような特異な環境が、お人好しといわれる和の心を生んだのであろう。しかし、世界が千年・万年と続き、人と人との交流が進んで民族の同一化が進めば、今の日本人が抱くような感覚を世界の人々が持つようになるかもしれない。その点では、日本は人類が理想とする世界に先んじているともいえる。
天皇にも触れざるを得ない。天皇は日本民族の祖の象徴で、共同体を支える情の要である。片や天皇は為政者でなく、共同体を支える理とは分離されている。時の為政者は、上位の権威たる天皇を畏れ、分を弁えて暴走を律してきた。日本以外でも、神や教皇が似た役割を果たしている。巧妙な均衡構造であるが、逆に情と理が結合すれば暴発する危険もある(戦前の日本など)。これら超越的な存在は、長期的には、その調整的な役割を智(Ai?)に譲り渡す運命にあるのだろう。
智とは、情や理に偏らず、理想を目指しながら現実的に対処する方便である。その心は、己も他も愛おしみ、互いを尊重して公平性を保つことにある。先に述べた天皇や教皇の効用もこれに近い。紆余曲折しながらも現実を処理していく先に、組織員が心に抱く前提が徐々に形を現してくる。その前提は、本音の特性として、意外にも些事(ささいな言動)に見え隠れしている。凡庸な結論であるが、最大の力は一人ひとりの日々の小さな行いや心の持ちようの積算・積分値なのであろう。
これで、9回のシリーズを終えます。思いつくままに続けてきたので、つじつまが合わないこともあるようです。全編をお読みいただいた方には深謝いたします。