先のブログでは、われわれを誘惑する「金、女、酒」、次に事故、病気、犯罪など危害を与えるものを危険物として挙げた。では、われわれの心の中に危険物はないのか。ある。「自分は不幸だ」という信念(怨念)だ。それが怒りや嫉妬に姿を変えて危険物となる。対応は同じく、その存在や特性を踏まえて取り扱うことだ。
ここでいう「不幸」は相対的関係で決まる。つまり、今の状況を理想化された自分や誰かと比較して不幸と感じるということだ。逆に言えば、究極の幸福とは、全ての面で全ての人に対し優位であること、何事も自分が一番の状況だ。いわゆるお殿様やお山の大将状態で、赤ちゃんの時は誰もがそうだったろう。
しかし、現実には自分勝手が通らず、自我を抑えざるを得ない。その不満は、道徳などの人倫(守るべきこと)や認知の修正(何らかの正当化)で抑え込まれている。達成されない自分の幸福願望は潜行し、本当は自分は不幸なのだという信念(怨念)として眠っている。この怨念が時に嫉妬や怒りとなり攻撃を始める。
反抗期には親が攻撃の標的だ。その後は他人が標的となる。攻撃は心理的、身体的、経済的、社会的など様々な局面で起こる(最悪は殺人行為)。いじめやハラスメントも、相手を不幸にさせて怨念を晴らそうとする行為だろう。但し、攻撃が全て怨念の発動という訳ではない。例えば、見極めは難しいが、尊厳を守るための防衛的な攻撃だ。
他者ではなく自分が攻撃対象となることもある(自虐、最悪には自死)。それは現在の自分だけではない。過去の行為を想起して嫌悪し、未来の不幸を心配し不安に怯え、この嫌悪や不安で自分を攻撃して苦しめる。自らの痛む傷を掻きむしることで自分の抱えた怨念を鎮めようとするのは、悲しく惨めな姿だ。
この怨念をどう処理するか。真に自分を幸せと思えるのが根本的な解決だが、それは難しい。建設的には、研究、芸術、競技のような永遠の課題に注意を向けることか(研究者、芸術家、運動選手でなくても可能)。それが無理でも、ありのままの自分を受け入れてくれる人間関係があれば、実はそれだけで十分なのだ。(続く)