皇族の熊野詣(御幸)は盛んで、宇多天皇と花山天皇(共に1度)に始まり、白河上皇(12度)、鳥羽上皇(23度)、崇徳上皇(1度)、後白河上皇(33度)、後鳥羽上皇(29度)、後嵯峨上皇(2度)、亀山上皇(1度)が記録されている。中宮の参詣も多く、待賢門院(9度)、美福門院(4度)、建春門院(3度)などだ。そこで、特に回数の多い白河から後鳥羽の間について、日本史を確認する(不敬だが敬称略とする)。
白河(72代)は院政の創始者だ(サムネール)。即位の日に退位して上皇となり、まだ8歳のわが子を天皇とした(堀河)。堀河が29歳で没すると、その子を5歳で即位させ(鳥羽)、更に鳥羽にも21歳で譲位を迫り、その5歳の子を即位させた(崇徳)。こうして、三代の天皇の約40年間、幼い天皇を後見する立場(治天の君)として君臨した。その一方で仏教への信仰は篤く、いくつもの寺院を創建した。
話が怪奇になるのは、白河の乱脈とその顛末だ。実は、崇徳は白河の実子だったらしい。崇徳の母(藤原璋子:待賢門院)は白河上皇の養女で、なんとその養女に手を付けてから孫の鳥羽に嫁がせたのだ(鳥羽から見れば崇徳は叔父にもなる)。鳥羽はこれを許せず、白河が亡くなるとすぐに崇徳を退位させ、得子(美福門院)との間の子を3歳で即位させた(近衛)。近衛は夭折したが、次には崇徳の弟を即位させた(後白河)。
崇徳にすれば、わが子が皇位を継げないことに納得できない。この崇徳と後白河との確執は、周囲の権力闘争を巻き込んで、鳥羽没後に武力闘争となった(保元の乱)。負けて讃岐に流された崇徳は、写経などで恭順の意を示したが許されず、呪いの血書「日本国の大魔王となり、皇を取って民とし民を皇となさん」をしたためたとされる(確かに、卑しいとされた武士の平清盛が太政大臣となった)。
勝利した後白河は在位3年で退位し、続く五代の天皇の上に院政を敷いて清盛や頼朝と張り合った。しかし結局は、武家政権(鎌倉殿)に実権は移った。源氏の嫡流が途絶えた(実朝の暗殺)のを機に、後鳥羽(82代)が武家打倒を図るも、政子の檄に決起した鎌倉勢に敗北を喫した。後鳥羽は隠岐に流され、京には監視所(六波羅探題)が置かれた(承久の変)。ここに崇徳上皇の呪いが成就した訳だ。
この白河の即位(1072年)から後鳥羽の崩御(1239年)までの約150年間とは、天皇家が摂関政治から権力を奪還しながら、それを下賤な武士に奪取された期間だった。その間に百度近い天皇・上皇の参詣があったのだ。熊野詣の本気度が分かろうというものだ。なお、江戸末期の大政奉還後には、京都に白峯神宮を創建し崇徳の御霊を鎮め(呪いを解いた?)、その後に明治天皇が即位されている。(了)