これはだめだ!

自信喪失、無気力な日本に”喝!”、反日、侮日に反撃、一矢を報いる。

皇子山中学校いじめ自殺事件、人間は獣でないと教えよ、偽りの仮面を取り払い上にたつ者が手本を示すことだ

2012-07-23 | 社会

文科省にいじめ対応チーム 
  現場対応に大臣「不安」
 

 
大津市の男子中学生が自殺した問題で、平野博文文部科学相は22日、地元の学校や教育委員会の対応について「大きな不安を感じる」と述べたうえで、いじめ問題に対応する「支援チーム」を文科省内に設置する意向を明らかにした。

 平野文科相はこの日のテレビ番組で、滋賀県警が学校現場を捜索したことについて「大変遺憾だし、極めて重大な問題だと認識している」と発言。教育現場の対応をめぐり、「不十分だったことは明らか。学校と教育委員会が前向きに全力で対処したのか、大きな不安を感じる」と批判した。そのうえで「役所も『報告を受けました。後は現場でやってください』という受け身ではなく、ともに助ける実動部隊を文科省の中に作りたい」と述べた。
    以上、朝日新聞 2012年7月22日17時27分 
 文科省がやるべきことは、自殺事件の後始末だけではない、道徳教育のあり方を見直し、上に立つものが手本を示すように指導する事も大事である。 

加害生徒の親の偏った価値観と子に対する“情”の欠如
 
いじめの加害者生徒の家庭における「家庭教育」は、どうだったのか。教育となると、真剣になればなるほど子供の欠点が分かるから、どうしても親しいほど腹が立ったり、悔しくなったりする。教育に熱心な親ほどどうしても子供を叱る。感情が複雑になってくるから、愛情よりも憎くなってくる。親は感じていなくても子供はそのように受け止める。そして子供はひねくれる。親は「かくくあるべし」という理想を追求する子供を責める。こうしなきゃいかん、なぜしないのかと子供を責める。ついには、子供は親に情が感じられないから親から離れる。子供の教育に熱心な教育ママ、学歴・経歴立派な父親は、教育、学歴、経歴などが価値判断の中心にありしかも大きな比重をしめ、それ以外のことは軽視かいい加減であれば、子は子なりに親の矛盾に気付く。いわゆる道徳的なことも範を垂れることもせず親らしい生き様を示せなければ、子供は反発し非行に走る。

 皇子山中学校のいじめ自殺事件の加害者生徒の家庭を観察すると、このような図式が成り立つのではないか。油親が“ご立派”だから、子供は心を休めることが出来なかったので脱落したのだろう。親の偏った価値観と子に対する“情”の欠如が見て取れる。加害生徒の親が悪い! 

学校の道徳教育は薄っぺらな「口耳の学」、手本がない
 道徳教育は、指導する教師が言葉や教育技法で「道徳」を教えることよりも、教師が手本、模範を示すことが大事だろう。垂範することが大事だ。漢和辞典によると教育の「教」は、「効」と同じで、「若者にならわせる」、「教える」意を表し、「真似させる。習わせる。導く。戒める。」などの意味であるとなっている。上の者が手本になるという意味である。父母が子供の手本になる。子供は理屈は分からないが、感化せられる。機械的に模倣するのではなく見て習うのである。これが家庭における“道徳実習といって差し支えないだろう。

 子供を躾けるということは、叱ったり強制したりすることでなく、父母や教師のあり方が、自然に手本になるということだろう。「この親にしてこの子あり」、「子は親を映す鏡」ともいう。「道徳教育」などと「口耳の学」を教えることよりも、教師が手本を示す、自らを示す。その上に人間性から出る情緒に理性とか知性をむすびつけて出来る音楽とか文芸を学ぶべきなのだろう。
 いじめで自殺事件が起きた皇子山中学校は、道徳教育のモデル校といいながら、校長や教師が手本を示すどころか、厄介な問題、困難な問題、紛糾した問題などから逃げている。道徳を論ずる資格があろうはずがない。

「道徳教育」などと恰好を付けるな!
  動物と人間の違いを教えることだ 
 
「初心に帰る」と言う言葉がある。根本、出発点がしっかりしていることが大事である。厄介な問題、困難な問題、紛糾した問題など、初めに帰って考えてみることが大切である。学校では「道徳」の教育が行われ、自殺事件が起こった中学校は文部省指定のもモデル校であった。

 看板と中身の違いが際立っている。学校教育における「道徳」は、国語、算数などの科目と同じひとつの学科、教室で特別に教え込まなければ学科であると、文部省以下末端の先生までが勘違いをしているのではないか。教職関係者は、道徳は生活するうえでの特殊な行動と考える癖があるのではないか。特殊なこと、不自然なこと、無理なこと、強制しなければ出来ないことというような先入観があるのではないか。 人間が禽獣・動物のレベルから段々に発達してくるにつけ、何が善であるか、あるいは真実であるかといった価値観、理想が考えられるようになってきた。動物と違うようになってきた。そこに自然自然に生まれてきたのが道徳と見ることが出来る。人間にとって最も自然なもの、普通なものなのであろう。これをなくしたら、禽獣・動物に成り下がってしまう。いじめ加害者が自殺した生徒に加えた数々の犯罪行為は、禽獣以下、鬼畜そのものであることが、このことをよく物語っている。 
 先生たるもの、教師たるもの、教育者たるものが、「道徳」は頭の中のものと考えたり、生徒の模範となる分別や行動が出来なかったのではないか。教育関係者は、「道徳」教育などと立派なことを言う前に、この点を見直すべきではないか。

首相のピントはずれのパフォーマンス、
 「いじめ相談」テレビで呼びかけ

 
     2012年7月17日 火曜日 読売新聞2面


 ピントはずれもいいとこ! 呼びかける相手を間違えている。首相が言いつける相手は、所轄の官庁・大臣や教職員組合の支援を受けて当選した議員や日教組の利益代表である幹事長の輿石ではないか。これらの人たちに喝を入れるべきだ。
 「いじめられる子にぜひ伝えたい。・・・・誰でもいいから相談してほしい」のはいじめられている子供の願いだ。周囲に相談する相手がいないから、絶体絶命、自殺に追い込まれたのだ。首相が呼びかけは、ピント外れのパフォーマンスである。
 皇子山中学校いじめ自殺事件は、道徳教育実践のモデル校で起こった。事件の全貌が徐々に明らかになるに伴い、文部省推進の道徳教育の薄っぺらなことが明らかになった。「道徳」教育は、知識や技法を教える薄っぺらな「口耳の学」ではないはずだ。「道徳」は日々の生活の中で実践しなければ意味がない。
「道徳教育」という“ご立派”な看板を掲げることよりも、人間は禽獣・動物ではないことを教えることが大事だろう。上にたつ者が、嘘・偽りの仮面を取り払い、手本を示すことが大事だ。


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