八坂神社にシミ、東寺も新たに発見
高句麗から来日した調進副使・伊利之使主の創建とされる八坂神社
八坂神社 社伝によれば、斉明天皇2年(656年)、高句麗から来日した調進副使・伊利之使主(いりしおみ)の創建とされる。牛頭天王は釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされ、名は新羅の牛頭山に由来するのだという。
寺社を毀損することは、普通の日本人が思いつかないことである。寺社に畏怖の念を抱かない者の犯行とみて差し支えない。また、被害に遭った社寺は古代日本の形成と密接な関わりを持ったもので、これらを汚損することは単なるいたずらや出来心によるものでない。同時多発的に起こっているので犯人は複数の人物が手分けして一斉に犯行に及んだ “ある種の政治的意図”をもった人々(組織といってもいい)が、「日本の古代史」に日本国民の関心を向けさせるための行った見られる。
油をかけられた社寺は全国で27か
油をかけられた社寺は、古代日本の形成に深く関わったことがいい伝えられているもの、またこの過程で朝鮮半島、特に百済などとの交流が認められる社寺である。犯人は、古代日本の形成は当時の日本列島に住む“日本人”が朝鮮文化を受け入れる側、朝鮮半島が“文化”及ぼす側とアピールすることが狙いに、朝鮮半島の勢力が未開の日本を “文明化” したと提起したかったのではないかと推察される。
被害に遭った社寺の[所在地]、[被害に遭った社寺]、[被害を受けたとみられる時期]、[報道の月日]と寺社の来歴(ウィキペディアから抜粋)は下記の通りである。
(1) 奈良県高市郡明日香村 岡寺 ~3月28日 (読売4月6日朝刊)
『東大寺要録』「義淵伝」、『扶桑略記』等によれば、天武天皇の皇子で27歳で早世した草壁皇子の住んだ岡宮の跡に義淵僧正が創建したとされる。史料上の初見は、天平12年(740年)7月の写経所啓(正倉院文書)である。
(2) 奈良県桜井市初瀬 長谷寺 ~3月29日 (読売4月6日朝刊)
開基(創立者)は僧の道明とされる。西国三十三所観音霊場の第八番札所であり、日本でも有数の観音霊場 大和と伊勢を結ぶ初瀬街道を見下ろす初瀬山の中腹に本堂が建つ。
(3) 奈良県高市郡明日香村 飛鳥寺 3月28~29日 (4月10日読売・朝)
蘇我馬子の発願で6世紀末に建てられた国内初の本格的寺院
日本最古の本格的寺院でもある法興寺(仏法が興隆する寺の意)の後身である。本尊は「飛鳥大仏」と通称される釈迦如来、開基(創立者)は蘇我馬子である。
(4) 奈良県高市郡明日香村 飛鳥座神社 ~3月下旬 (4月10日読売・朝)
創建の由緒は不詳。
『出雲國造神賀詞』に「賀夜奈流美命ノ御魂ヲ飛鳥ノ神奈備ニ坐テ皇孫命ノ近守神ト貢置」とあり、大国主神が皇室の近き守護神として、賀夜奈流美命の神霊を飛鳥の神奈備に奉斎したとある。
また『日本書紀』朱鳥元年(686年)7月の条に「奉幣 於居紀伊国国懸神 飛鳥四社 住吉大社」とあり、天武天皇の病気平癒祈願のため幣帛が奉られた。『日本紀略』によれば、天長6年(829年)、神託により、現在の鳥形山へ遷座した。
(5) 奈良県高市郡明日香村 橘寺 3月20日~4月4日 (4月10日読売・朝)
橘寺の付近には聖徳太子が誕生したとされる場所があり、寺院は聖徳太子建立七大寺の1つとされている。太子が父用明天皇の別宮を寺に改めたのが始まりと伝わる。史実としては、橘寺の創建年代は不明で、『日本書紀』天武天皇9年(680年)4月条に、「橘寺尼房失火、以焚十房」(橘寺の尼房で火災があり、十房を焼いた)とあるのが文献上の初見である。
(6) 奈良県奈良市 東南院 ~4月6日 (4月10日読売・朝刊)
真言宗空海の開創と流布されるが、実際には醍醐寺開山に尽力した聖宝の創設とされる。貞観17年(875年)、聖宝が建立した薬師堂が東南院の起源である。延喜4年(904年)東大寺別当道義が佐伯氏の氏寺香積寺の建物を東大寺大仏殿東南の地に移して伽藍を整備した。
(7) 奈良県葛城市 当麻寺 4月8日午前 (4月10日読売・朝刊)
7世紀創建の寺院。開基(創立者)は聖徳太子の異母弟・麻呂古王とされるが、草創については不明な点が多い。開基(創立者)は聖徳太子の異母弟・麻呂古王とされるが、草創については不明な点が多い。
(8) 奈良県吉野郡吉野 金峯山寺 4月5日~8日 (4月10日読売・朝刊)
飛鳥時代創建と伝えられる。2004年世界ユネスコ遺産に登録。
7世紀に活動した伝説的な山林修行者・役小角が開創。
(9) 奈良県橿原市久米町 久米寺 4月7日~8日 (4月10日読売・朝刊)
開基(創立者)は聖徳太子の弟の来目皇子(くめのみこ)ともいうが未詳。『扶桑略記』や『今昔物語集』においては久米仙人により創建されたと伝えられる。
(10) 奈良県桜井市 安倍文殊院 4月7日~8日 (4月10日読売・朝刊)
大化の改新の時に左大臣として登用された安倍倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)の氏寺として建立されたという。
(11) 奈良県橿原市 橿原神宮 4月7日~9日 (4月10日読売・朝刊)
記紀において初代天皇とされている神武天皇を祀るため、神武天皇の宮(畝傍橿原宮)があったとされるこの地に、橿原神宮創建の民間有志の請願に感銘を受けた明治天皇により、1890年(明治23年)4月2日に官幣大社として創建された。
(12) 奈良県奈良市 春日大社南門 4月11日発見 (産経UEST 2015.4.11 20:22)
春日大社は奈良・平城京に遷都された710年(和銅3年)、藤原不比等が藤原氏の氏神である鹿島神(武甕槌命)を春日の御蓋山(みかさやま)に遷して祀り、春日神と称したのに始まるとする説もあるが、社伝では、768年(神護景雲2年)に藤原永手が鹿島の武甕槌命、香取の経津主命と、枚岡神社に祀られていた天児屋根命・比売神を併せ、御蓋山の麓の四殿の社殿を造営したのをもって創祀としている。ただし、近年の境内の発掘調査により、神護景雲以前よりこの地で祭祀が行われていた可能性も出てきている。
(13) 奈良県奈良市 唐招提寺の金堂 4月11日発見(産経UEST 2015.4.11 20:22)
『続日本紀』等によれば、唐招提寺は唐僧・鑑真が天平宝字3年(759年)、新田部親王(天武天皇第7皇子)の旧宅跡を朝廷から譲り受け、寺としたものである。唐招提寺という寺号は、「唐僧鑑真和上のための寺」という意味合いである。鑑真は来日した時、既に66歳になっていた。
遣唐使船に同乗し、琉球を経て天平勝宝5年(753年)12月、薩摩に上陸した鑑真は、翌天平勝宝6年(754年)2月、ようやく難波津(大阪)に上陸した。同年4月、東大寺大仏殿前で、聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇らに菩薩戒を授け、沙弥、僧に具足戒を授けた。鑑真は日本で過ごした晩年の10年間の内、前半5年間を東大寺唐禅院に住した後、天平宝字3年(759年)、今の唐招提寺の地を与えられた。大僧都に任じられ、後に大和上の尊称を贈られた鑑真は、天平宝字7年(763年)5月、波乱の生涯を日本で閉じた。数え年76であった。
(14) 奈良県桜井市 普門院不動堂 4月11日発見 (産経UEST 2015.4.11 20:22)
元は平等寺に安置されていたが、神仏分離の際に長岳寺に移され、その後長谷寺の塔頭寺院である普門院に移座された。
(15) 京都市中京区 二条城 ~2月12日 (4月10日読売・朝刊)
江戸時代の日本の城跡。ユネスコの世界遺産(世界文化遺産)に「古都京都の文化財」として登録されている。徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀と、徳川慶喜の大政奉還が行われ、江戸幕府の始まりと終焉の場所。
(16) 京都府京都市南区 東寺 ~3月27日 (4月10日読売・朝刊)
東寺は平安京鎮護のための官寺として建立が始められた後、嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。
(17) 京都市東山区 八坂神社 4月10日昼~12日朝 (4月12日 毎日・電子版)
社伝によれば、斉明天皇2年(656年)、高句麗から来日した調進副使・伊利之使主(いりしおみ)の創建とされる。牛頭天王は釈迦の生誕地に因む祇園精舎の守護神とされ、名は新羅の牛頭山に由来するのだという。そして山城国愛宕郡八坂郷に祀り、「八坂造」の姓を賜ったのに始まる。
(18) 香川県仲多度郡琴平町 金刀比羅宮 4月1日~9日 (4月10日読売・朝刊)
海上交通の守り神として信仰されており、漁師、船員など海事関係者の崇敬を集める。時代を超えた海上武人の信仰も篤く、戦前の大日本帝国海軍の慰霊祭だけではなく、戦後の朝鮮戦争における海上保安庁の掃海殉職者慰霊祭も毎年、金刀比羅宮で開かれる。
刀比羅宮の由緒については二つの説がある。一つは、大物主命が象頭山に行宮を営んだ跡を祭った琴平神社から始まり、中世以降に本地垂迹説により仏教の金毘羅と習合して金毘羅大権現と称したとするものである。
もう一つは、もともと象頭山にあった真言宗の松尾寺に金毘羅が鎮守神として祀られており、大宝年間に修験道の役小角(神変大菩薩)が象頭山に登った際に天竺毘比羅霊鷲山(象頭山)に住する護法善神金毘羅の神験に遭ったのが開山の縁起との伝承から、これが金毘羅大権現になったとする。
(19) 兵庫県淡路市 伊弉諾(いざなぎ)神宮 2月下旬〜3月下旬(4月12日毎日・電子版)
古事記や日本書紀に記述がある伊弉諾神宮の社殿前階段に幅1メートル、高さ30センチの範囲で染みが点在。自由に参拝できる場所で、2月下旬〜3月下旬に複数の職員が見つけ、宮司が4月12日に通報した。
(20) 千葉県香取市 香取神宮 ~3月26日 (4月10日読売・朝刊)
千葉県北東部、利根川下流右岸の「亀甲山(かめがせやま)」と称される丘陵上に鎮座する。日本神話で大国主の国譲りの際に活躍する経津主神(フツヌシ)を祭神とすることで知られる、全国でも有数の古社である。
古くは朝廷から蝦夷に対する平定神として、また藤原氏から氏神の一社として崇敬された。
社伝では、初代神武天皇18年の創建と伝える。黎明期に関しては明らかでないが、古くは『常陸国風土記』(8世紀初頭成立)[原 7]にすでに「香取神子之社」として分祠の記載が見え、それ以前の鎮座は確実とされる。
また、古代に香取神宮は鹿島神宮とともに大和朝廷による東国支配の拠点として機能したとされるため、朝廷が拠点として両社を祀ったのが創祀と見る説がある。これに対して、その前から原形となる祭祀が存在したとする説もある。
(21)茨城県鹿嶋市宮中 鹿島神宮 ~4月9日 (4月10日読売・朝刊)
日本神話で大国主の国譲りの際に活躍する武甕槌神(建御雷神、タケミカヅチ)を祭神とすることで知られる。古代には朝廷から蝦夷の平定神として、また藤原氏から氏神として崇敬された。その神威は中世に武家の世に移って以後も続き、歴代の武家政権からは武神として崇敬された。
韓国は朝野をあげて「日本の古代史」に対し反発
最近、韓国では日本の教科書検定で竹島や慰安婦について日本の考え方を前面に出す記述になったことに対し朝野を挙げて反発し、百済、任那の日本府など歴史的事実を否定することに躍起となっている。記事には、上から目線の朝鮮人の意識が窺われる。
(以下、韓国紙から抜粋)
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韓国【中央日報の記事】
韓国首相「日本の起源は百済…日本の歴史歪曲、絶対許せない」
2015年04月10日09時35分 中央日報/中央日報日本語版
韓国の李完九首相は9日、日本文化庁が最近韓半島(朝鮮半島)古代史の一部である三国時代を日本の支配を受けた任那時代と表記したことについてさらに強く批判した。これは異例とも言えることだ。李首相は「手のひらで天を隠す(以掌蔽天)」「鹿を指して馬と為す(指鹿為馬)」などの故事成語まで動員して日本を叱責した。
李首相は同日午後、政府ソウル庁舎で予定にはなかった記者会見を自ら要望して開き、「日本の歴史歪曲は(我々民族の)民族魂を否定するもの」としながら「いかなる場合でも歴史歪曲は絶対に許してはいけない」と述べた。これに先立ち、日本は文化庁ウェブサイトで三国時代の韓半島から搬出して日本が所蔵している23点の遺物のうち、8点を任那時代の遺物だとする説明を添えている。
該当の遺物が、実在した三国時代と出土地である慶尚南道昌寧などは意図的に削除した。4世紀後半に日本が韓半島南部に進出して加耶(任那)に日本部という機関を設置し、6世紀まで百済・新羅・加耶を支配したといういわゆる「任那日本府説」に伴う歴史歪曲を進めているものだ。
李首相は「安保・経済的には日本と協力して未来志向的に進んでいくとしても、歴史はTwo trackで行かなければならない。歴史問題では事実に基づいて我々の立場を堅持しなければならない」と強調した。
それと共に、李首相は自身が忠清南道知事時代に姉妹都市だった熊本・大阪・奈良・静岡などを訪問して知るようになった事実などを根拠に、任那日本府説を一蹴した。特に、道知事時代に歴史学者である洪潤基博士に要請して執筆された百済関連の歴史書物3冊(『百済は大きい国』『日本の中の百済、百済(クダラ)』『日本の中の百済、奈良』)を会見会場に持参した。
李首相は「日本で会った熊本県知事も百済崩壊当時、数十万人の百済遊民が九州にやって来たと話した。私が知事だった忠清南道公州(コンジュ)と扶余(プヨ)は百済王朝だった。歴史的真実を見れば日本の起源は百済」と強調した。李首相は「奈良県の東大寺にある日本王室遺物倉庫である正倉院がなぜ公開されないのか今でも疑問」と話した。日本王室の起源が百済という事実が立証されることを恐れて日本が正倉院を意図的に開くことができないという意味だ。
李首相は「歴史的真実は覆い隠すことはできず、いつかは評価を受ける」とし「日本に比べてまだ及ばない歴史研究を強化しなければならない」と話した。また、李首相は「古代の韓日関係研究に予算と人材を拡充できるように教育部に指示する予定」と話した。 (以下、略)
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韓国国会、日本糾弾決議案採択…「歴史歪曲・領土侵奪は極めて遺憾」
2015年04月10日10時18分 中央日報日本語版
韓国の国会東北アジア歴史歪曲対策特別委員会は10日に全体会議を開き、「安倍政府の独島(ドクト、日本名・竹島)領有権の侵奪および古代史の歪曲に対する糾弾決議案」を採択した。
この決議案には、日本政府が独島に対する領有権を主張し、「任那日本府説」まで持ちだしながら古代史をゆがめた中学校教科書検定を通過させた点などを挑発行為と規定し、糾弾する内容が盛り込こまれたことが分かった。
また、韓日国交正常化50周年を迎えて未来志向的な友好増進を表面に前に出しつつも、歴史を歪曲・ねつ造して領土を侵奪しようとする二重的な態度に対して強い遺憾を表わした。
東北アジア特別委はこの決議案で「日本政府が小学校教科書に続き中学校教科書でも『独島は日本の領土』というゆがめられた事実に対して検定を通過させ、来年から全ての中学生の教育に反映させるよう決めたことは、我々の領土主権に対する明白な侵奪行為と規定してこれを強く糾弾し、即刻撤回を求める」と明らかにした。
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韓国【朝鮮日報の記事】
三国時代の文化財を「任那時代」と表記 修正要請方針=韓国
記事入力 : 2015/04/09 15:36
【東京聯合ニュース】韓国政府は日本の文化庁が韓国文化財の一部を「任那時代」のものと説明していることについて抗議し、修正を求めることを検討している。韓国文化財庁傘下の国外所在文化財財団への取材で9日、分かった。
日本が4~6世紀、朝鮮半島の南部を支配したとする「任那日本府説」は日本の多数の学者らも根拠がないとの見解を示している。
国外所在文化財財団の日本事務所関係者は聯合ニュースの取材に対し、「文化庁のホームページに記載されている韓国文化財の出所と時代に関する表記は任那や三国時代などが混在している」として、「政府レベルでの対応を検討している」と伝えた。
文化庁のホームページには朝鮮半島の三国時代の金銅翼状冠飾など、4~6世紀の遺物8点を「任那時代」のものと説明している。
これら遺物はいずれも日本人事業家、小倉武之助氏(1870~1964年)が1910~1950年代に朝鮮半島全域で収集した「小倉コレクション」の一部で、東京国立博物館に寄贈し、同博物館が所蔵している。
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ところで、韓国の歴史・教育と言えば“夢物語”日本と正反対の見方
下記は韓国の国定歴史教科書における韓国「古代史」の記事の一部である。
http://f17.aaacafe.ne.jp/~kasiwa/korea/textbook_korea/
古代の朝鮮半島は“東アジアの盟主”だった。夢のようなロマン溢れた朝鮮だったのだ。そのような意気込みが感じられる記述である。「歴史を直視しない民族に未来はない」とは、朝鮮半島の人間に相応しい言葉である。
【高句麗の発展】
高句麗は朝鮮半島だけでなく“満州”も支配していたのだ。大日本帝国顔負けである。 (図をクリックすると大きくなります。) 【伽那連盟】
【百済の発展】
百済こそ東アジアの盟主だった。中国大陸をも支配下に置いたのだ。夢のようではないか。
証拠がなければ、“歴史”はいくらでも改竄できる。わが朝鮮民族にとっては、このようなことは、お手のものである。
【古代文化の発展 日本伝搬】
油をかけられた社寺の所在地と「図:三国文化の日本伝搬」を照らし合わせると、事件をみるヒントが有りそうだ。事件は外部勢力またはそれに同調する勢力が起こしたのではないか・・・・。
在日韓国人社会の動向
一連の事件が起こった時期、韓国人社会は“渡来文化に”関心を向けていた。以下、在日韓国人の新聞【民団新聞】の記事から。
渡来文化の里明日香村探訪…大阪韓国商工会議所
【大阪】大阪韓国商工会議所(高英寛会長)は3月28日、会員と一緒に春らんまんの奈良県明日香村を訪れた。恒例の「歴史探訪」の一環。会員のほか民団と婦人会からも加わり、78人が参加した。
一行は橿原神宮前を出出発。京都橘女子大学の猪熊兼勝名誉教授の案内で小墾田宮跡や豊浦寺、水落遺跡(水時計)、石神遺跡(迎賓館)、飛鳥寺、飛鳥資料館までの5・5㌔を歩き、百済からの渡来人に思いを馳せていた。
伽 琴奏者の黄秉冀さん (2015.4.8 民団新聞)
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この頃に社寺に油がまかれた。時期が一致したのは偶然だったのだろうか? 示唆的!
最後に、下衆の勘ぐり: “外部勢力”またはその同調者の犯行
日本の歴史教育や古代史に対する見方は韓国のそれと正反対の考え方を取っている。
韓国にとって、『日本書紀』の雄略紀や欽明紀などに見える、古代朝鮮半島南部の伽耶の一部を含む任那にあった倭国の出先統治機関・任那日本府や倭国の朝鮮半島進出を裏付けることになる、永楽10年(400年)条に「任那加羅」文字が見える「広開土王碑文(414年建立)」は、朝鮮人に都合よく歪曲したい史実であろう。『日本書紀』の崇神天皇条~天武天皇条にも「任那」が多く記され、中国や朝鮮の史書でも朝鮮半島への倭国の進出を示している。
勾玉の原料であるヒスイの産地は日本である。新羅・百済・伽耶の勢力圏内で日本産のヒスイ製勾玉が大量に出土(高句麗の旧領では稀)しているが、朝鮮半島には勾玉に使われるヒスイ(硬玉)の産地はなく、東アジア全体でも日本の糸魚川周辺とミャンマーしか産地がない。最新の化学組成の検査でも朝鮮半島出土の勾玉が糸魚川周辺遺跡のものと同じであることが判明している。
ということで、韓国の「古代史」は全くの捏造で夢物語に過ぎない。建国の“神話”が脆くも崩れ去っていくことに堪えがたい思いであろう。「歴史を直視しない民族に未来はない」、朝鮮半島の人間は、朝鮮半島の歴史を直視したくてもできないのだ。日本の江戸時代末期に相当するまでの期間は、国定教科書の「歴史」には記述がないか、サラーと記述されているが、史実が現存しているので歪曲も捏造もできない。
史料が乏しい古代については夢物語を捏造し「古代史」として教育している。
日本が史実に基づいた歴史教育をすることに韓国人は朝野を挙げて半狂乱になっている。日本の社寺に油を撒いて汚損したのは、社寺に畏怖の念を抱くことがない外部勢力もしくはそのシンパではないかと観察される。靖国神社の柱を燃やしたり放尿したのは韓国人だった。これを連想させる出来事である。
以上、下衆の勘ぐりでした。
【参照】
韓国人が靖国神社で放尿しネットで自慢 「日本の政治家が妄言が続くたびに放尿する」
http://getgold.jp/?p=21837