これはだめだ!

自信喪失、無気力な日本に”喝!”、反日、侮日に反撃、一矢を報いる。

10月9日、国会代表質問でまさかの自民党で親の七光り、ディープステートの使い走りで襲議員の進次郎に槍が飛ぶ

2024-10-10 | 安全保障

  

 

小泉進次郎  
 2004年(平成16年)3月、22歳の時に関東学院大学経済学部卒業。
その後、コロンビア大学大学院に入学。この入学は「例外中の例外」、
親父が首相だったので「条件付き合格」、
2005年9月よりジェラルド・カーティスに師事。
2006年(平成18年)に政治学で修士の学位を取得。

 その後、アメリカ合衆国にある、
 ロンドン タビストック人間関係研究所 配下の戦略国際問題研究所非常勤研究員を経て
 2007年(平成19年)に帰国

 ダビストック人間関係研究所は、
まさしくディープステートの洗脳工作の総本山である。
 ・
「見えない政府」
 ・マスコミは世論調査産業の先導役
 ・自在に形成される世論
 ・女性蔑視と道徳基準の低下
 ・プロパガンダのためメディアを最大限活用
 ・プロパガンダと心理戦争について研究
 ・英国はダビストックを介して米国を支配する
 ・テレビ司会者、政治家、俳優、歌手が「もてはやされる」社会に
 ・「世論調査」というまやかしの技法 
 ・「戦略爆撃」という大量殺戮行為を実施 
 ・レヴィンが標的を選んだドレスデンの大空襲 
 ・「ビートルズ」も「ヒップホップ」もダビストックが創ったもの

ここで学んだということは小泉進次郎が
日本解体、ワンワールドを目指す外国勢力の使い走り、
手先
であるということである。



曾祖父・小泉 又次郎
  

・1865年6月10日〈慶応元年5月17日〉

  武蔵国久良岐郡六浦荘寺分村大道(現在の神奈川県横浜市金沢区大道)生まれ

  由兵衛はのちに横須賀に移って、海軍に労働者を送り込む軍港随一の請負師]になった。
 大衆政治家で、入れ墨があったことから「いれずみ大臣」「いれずみの又さ
ん」などの異名をとった。

・1907年(明治40年)- 横須賀市会議員に当選。
・1929年(昭和4年)- 逓信大臣に就任。
・1934年(昭和9年)- 横須賀市長に就任。
・1937年(昭和12年)- 立憲民政党幹事長に就任。
‣1944年(昭和19年)- 小磯内閣の顧問。
・1951年〈昭和26年〉9月24日)死去 

 

祖父・小泉純也    

・1904年〈明治37年〉1月24日
 鹿児島県川辺郡東加世田村大字小湊(現在の南さつま市加世田小湊)小松原地区の漁業・鮫島家に生まれ。

・1937年、小泉は鹿児島県から民政党公認で第20回衆議院議員総選挙に立候補し、初当選。
・1942年の翼賛選挙では翼賛政治体制協議会の推薦を受けて当選。
  そのため戦後、公職追放となる。

・追放解除後は、旧民政党系のうち岸信介に近い政治家によって結成された新日本政治経済調査会に参加し、
 同会はその後日本再建連盟に発展したが、まもなく再建
連盟を離れて改進党に入党。

・1952年に義父・又次郎の後継者として神奈川県から改進党公認で衆議院議員に立候
補、政界に返り咲いた。
・その後鳩山一郎率いる日本民主党の結成に参加し。
・1955年の保守合同によって自由民主党が誕生すると、旧民政党系右派の政治家が結集した大麻派に所属。
・1964年、第3次池田内閣改造内閣、および第1次佐藤内閣の防衛庁長官を歴任した。
・ 1969年〈昭和44年〉8月10日)は、日本の政治家。位階は正三位。


〔原爆投下男・カーチス・ルメイを叙勲〕
  
・1964年12月4日、カーチス・ルメイの勲一等旭日大綬章叙勲の閣議決定に参加。
 この叙勲に関して東京大空襲や原爆投下に関与したルメイへの授与が非難されたが、
 小泉は「功績と戦時の事情は別個に考えるもの。防衛庁の調査によれば、当時ルメイ
 原爆投下の直接部隊の責任者ではなく、サミュエル・モリソンによれば原爆投下は
トルーマン大統領が直接指揮したものである」と説明し、佐藤栄作首相もそれに同意した。
推薦は防衛庁長官小泉純也と外務大臣椎名悦三郎によって行われた。 

〔在日朝鮮人北朝鮮送還〕  
・在日朝鮮人の北朝鮮送還事業を主導
 1950年代末、在日朝鮮人の帰還事業に中心的な役割を果たした。当時、自民党の国会議員でありながら
「在日朝鮮人の帰国協力会」の代表委員に就任し、在日朝鮮人の
北朝鮮送還のため積極的に活動した。
 当時、純也氏の選挙区である神奈川2区に多
数の在日朝鮮人が居住している川崎市が含まれていた。
 冷戦の真
最中だった当時、自民党議員の身分で社会党や共産党と超党派の会合を開くこと自体が異例。
・1969年〈昭和44年〉8月10日)死去。 

 

父・小泉 純一郎   
・1942年〈昭和17年〉1月8日生まれ。
  内閣総理大臣(第87・88・89代)
  農林水産大臣(第37代)
  外務大臣(第127代)等など歴任 
  米国のジャパンハンドラーにいいように操られた人物。
  日本を衰退に導いた政治家、
「日本をぶっ壊すぞ!」

・学生時代 
 神奈川県立横須賀高等学校卒業後、東京大学入学を目指し2浪。 
 横須賀市立馬堀中学校から県立横須賀高校へ同学年の2名は東京大学を現役合格した。
 小泉は“並み”の出来。その後、慶應義塾大学経済学部に入学し、同大学
を卒業。 

 英国ロンドン大学群ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン (U.C.L.) に留学の後、
 1969年(昭和44年)8月に父が急死し帰国。

 純一郎がイギリス・ロンドン留学の話が持ち上がった当時、
 横須賀の街では「純一
郎が女性問題を起こしたようだ」とか、
 防衛庁長官だった父親が、「世間の目から隠すためロンドンんに行かせようだ」との噂話が広まった。

・同年12月、亡父の跡を継ぎ、
 弔い選挙となった第32回衆議院議員総選挙に神奈
川2区から自由民主党公認で立候補したが落選。


 


  

  





   
【小泉進次郎 10/9 超速報】
 代表質問でまさかの進次郎に槍が飛ぶ‼︎
 自民党で親の七光り議員が多すぎる理由は「○○が難しいから」 
 

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