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【霊学的イエス論②】人間イエスの記録(共観福音書問題)

2010-08-20 00:17:09 | 高森光季>イエス論・キリスト教論
 まずは、イエスをめぐる「情報」についての、基礎的なことからおさらいしていくことにする。

 「聖書」というのは、「旧約聖書」と「新約聖書」に分かれている。何だこれは、と思うのが普通であろう。で、キリスト教では、旧約はキリストが出現する以前の「神様との古い契約」、新約はキリストによってもたらされた「新しい契約」だと説明する。
 ずいぶんな話である。
 「旧約聖書」と呼ばれているのは、古代ユダヤ教の聖典である。まあ、厳密にはちょっと違うのだけれども、そのあたり(旧約の成立問題)はややこしいので省略する。
 キリスト教はユダヤ教をパクっているが、ユダヤ教ではないし、ユダヤ教は別にちゃんと存在する。人様の聖典を勝手に「古い契約」と呼ぶのは失礼だろう。ユダヤ教がしばしばキリスト教に憎悪を表明するのは、ゆえないことではない。

 まあそれはともかく、イエスとそれに始まる新宗教の第一次記録が、「新約聖書」である。これは、四つの福音書(イエス言行録)と最初期の「イエス信奉者」の記録である「使徒行伝」、原始教団があちこちで活動を活発化させていたころの経緯を記録した「書簡類」、そして奇妙な「文学作品」である「黙示録」からなる。
 イエスの言行録である「福音書」は、「正典」とされるのは四つある。「マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ」の順に並んでいて、キリスト教会ではマタイが好まれるようである。
 なぜ四つあるか。様々なグループがあって、それぞれなりにイエスを賞揚しようとしたからである。つまり、最初から一つの「中央統一権威」があったわけではない。四つと言わず、イエス言行録はもっとあった。20世紀になって発見された「トマス福音書」(イエスの発言集)は、後期のグノーシスの影響の元に成立したとされるが、原型はもっと古いものかもしれないと考えられている。

 四つの福音書に関して、現在は以下の点が定説とされている。
 ・成立は、マルコ福音書が最も古く紀元50年頃、次いでマタイとルカ各福音書が80年頃、最後のヨハネ福音書は100年頃である(以下、各福音書は書記者とされる人名で示す。ちなみに各福音書は必ずしも一人の作者によって成立しているわけではない)。
 イエスの刑死が紀元30年頃とされるので、最も古いマルコでも死後20年、新しいヨハネは死後70年を経ている。この間、紀元66~73年にはユダヤ戦争が起こり、70年にはエルサレム神殿が消滅、イスラエルは地図から消滅している。
 (なお、マルコ成立をもう少し遅く、マタイとルカの成立をもう少し早く考える人たちもいる。護教的な人ほどこういう傾向が強いようである。)
 ・マタイとルカは、既に成立していたマルコと、別の共通の資料(いわゆる「Q」資料。語録と思われるが今はどこにもない)を基礎に、それぞれ別の場所で、別の集団を基盤に記された。
 ・以上の三福音書は、共通する記述が多く、イエスの言行を比較的よく伝えている。これを「共観福音書」と呼ぶ。
 ・これに対してヨハネはイエスの伝承を含むが、かなり事実を離れた、独自の宗教思想が展開されている。(ただし、細部に関して、事実に近い伝承を記録している可能性もある。)
 なお、ヨハネ福音書と「ヨハネの黙示録」の著者が同一か否かは、論争になっている。違うと見るのが優勢なようである。

 つまり、イエスの実像を探ろうとすれば、マルコ・マタイ・ルカの三つの「共観福音書」が基礎になるということである。そして、各福音書はそれぞれ独自の偏向・改竄を含んでいるので、慎重にそれらを比較していくことで、おぼろげながらもイエスの言行の実態が浮かび上がってくるということである。また、三つを比較する際、基礎となるのは、最も古いマルコとなる。マルコの文章は美しくないとか、ちょっと問題になる記述があるとかで、キリスト教では評価が高くないが、マタイ・ルカがこれをベースにしていることは疑いないし、余計な改竄を経ていない分、資料的価値も高い。
 このあたりのことを、田川建三氏は端的にこう述べている。
 《(マタイとルカ)両者とも、マルコとQとを資料として手にし、その二つを総合しなければならない、と思ったのと、この二つの主資料以外にも、それぞれが個別にかなりの量の伝書を知りえたので、それをまとめて発表したかったのと、おそらくもっと根本的な動機は、それまでの唯一のまとまったイエス記述であるマルコ福音書が原始キリスト教の主流に対してはっきり批判的視点をうちだしているので、そういう福音書だけでは正統的教会として困るので、マタイ、ルカそれぞれなりに、もっと正統的な権威をもった福音書を書きたい、と思ったからであろう。このうち、ルカの方は一人の著者の著述活動になるもので、パウロのエピゴーネン(おそらくパウロ晩年の弟子である医者ルカ)が、その月並な宗教意識の視点から資料を整理してできた作品であり、マタイの方は、一人の著者の作品というよりも、著者マタイ(イエスの弟子とされるマタイとは別人)の属していたギリシャ語を話すユダヤ人の教会(おそらくシリア地方)の知識人キリスト教徒が、一種の学派的作業として自分達の教会の正典的福音書をつくりあげようとした努力を、最後に一人の著者がまとめあげたものである。》(『イエスという男』二五~二六頁)

 はっきりさせておかなければならないのは、いずれの文書もギリシャ語で書かれているということである。これは、初期キリスト教の活動拠点の多くが、ギリシャ語を公用共通語として用いていたということによる。時代はアレクサンドルの大帝国の消滅後、「ヘレニズム」と呼ばれる国際文明が華開いていた時期だった。
 で、イエスはギリシャ語を話していたわけではない。彼が何語を話していたのかは、従来論争の絶えない大問題で、正統ユダヤ教のヘブライ語を話していたという説と、イエスの生まれたガリラヤ地方の公用語であるアラム語を話していたという説がぶつかっている。まあ、これは、両方話していたとみるのが自然ではなかろうか。イエスはユダヤ教を相当勉強していたし、周囲にヘブライ語を話す賢者もいただろう。会堂で説教したという伝承もあるから、ヘブライ語は話せただろうが、もちろん普段は地元の公用語アラム語を話していただろう。要するにバイリンガルで、別にめずらしいことではない。
 で、問題は、だからイエスの言葉はいずれにせよ「翻訳」されているということである。日本語で説教した僧侶の言葉が中国語で記録されているようなものである。当然、誤訳は生じるし、微細なニュアンスは飛んでしまう。まあそれでも多少のニュアンスが入っているなと感じるところもあるけれども、残念ながらイエスの直説はかなり歪んで伝わらざるを得なかったということである。

 なお、四つの正典福音書のほかに、「偽典」とされる福音書もある。マグダラのマリアといった有名な人物の名前を冠しているものが多いが、ほとんどが後世の偽書であるとされている。ただし、20世紀になって発見された「トマスの福音書」は、イエスの言葉とされるものを集めたものだが、その中にはイエスの発言ではないかとされるものもある。これについては改めて触れることになるかもしれない。

 *新約聖書の日本語版については、一応、新共同訳(日本聖書協会)が、いろいろ問題はあるものの、標準版とされています。入門的にはこれを見るのが無難でしょう(新改訳は特定宗派のものです)。岩波書店の『新約聖書全5冊』は注解がきちんとしています。ネットには著作権フリーの「電網聖書」がありますが、ちょっと問題ありのところもあります。ここでは読み物ですから、あまり厳密にしていません。佐藤研編訳『福音書共観表』(岩波書店、2005年)は共観福音書の異同をはっきりさせるのに非常に便利な本です(トマスも参照されています)。英語では、トマス福音書を含めた「五つの福音書」からイエスの言葉を抽出して比較し、そのの信憑性について何人もの研究者の投票による(!)賛否を示した、まあ最新の研究書『The Five Gospels-What Did Jesus Really Say?』(1997, HarperSanFrancisco)というのもあります。面白い試みですけど、これもまた問題ありのところもあります。「Q資料」およびトマス福音書に関しては、クロッペンボルグ他『Q資料・トマス福音書』(日本基督教団出版局、1996年)があります。新約聖書の成立と伝承の問題は、専門書ですが田川建三先生の『書物としての新約聖書』(1997年、勁草書房)に詳しいです(本の帯には入門書とある[笑い]。そりゃ聖書学者からすれば入門書かもしれませんが、一般人にこれを入門書と言うのは脅しですよ[笑い])。

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1 コメント

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黙示録 (へちま)
2010-08-21 12:29:46
私はキリスト教の知識に乏しく、スエデンボルグの著作でも神学等に関する記載は理解しがたいのですが、要するに素朴なイエスの教えを後世の知識人が複雑怪奇に解釈したものだろうと理解しています。
スエデンボルグの黙示録講解に拠れば、これらの誤謬に満ちた教会の後に、真のキリスト教が起こされるということです。私はスエデンボルグとスピリチュアリズムによる啓示が、この真のキリスト教であると理解しています。
スピリチュアリズムが過去の神学のように複雑怪奇なものにならないよう祈っております。
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