たまには雑談も。
いつまでも寒いですね。今年は気候も変なのでしょうか。
ずいぶん雨も降らなかったし。このまま空梅雨だと、水がやばそうです。
ただでさえ、電力不足でどうのこうのの夏になりそうなのに、水までないと地獄ですね。
まだ関東では余震も続いていますし、次は富士山か東南海かといった予言もあります。
あの500㎞×200㎞という巨大な地殻変動の後ですから、何かあっても不思議ではないです。
買い占めはよくないけれども、非常用備蓄は準備しておくのがいいでしょうね。
別にカタストロフ予言を煽るわけではありませんけど、この大震災で見えなくなっていることですが、「世界的食糧危機」も迫っています。短期的にはオーストラリアやアメリカや中国の異常気象のせいですけれども、中期的に、中国・インドなどの国々の生活水準が上がれば、穀物消費(食肉のための飼料も含めて)は、飛躍的に増大することは間違いないわけで、これは不気味な傾向です。
今、イスラム諸国で起きている内乱も、民主化要求というよりも、穀物(特に小麦)の暴騰が大きな要因だとも言われています。
日本は現在も、どういうわけか円高維持なので、すぐには問題化しないようですけれども、そのうちどうなるかはわかりません。
原発問題で今後電力がどうなるかもわかりませんし、どうもこの先、これまでのような潤沢な消費生活はできなくなるのではないかと思われます。
現状では、日本は海外から2000万トンだかの食糧を輸入して、1000万トン以上の食品を廃棄しているとか(数字はあやふやです)。こういうことをしているとやはりバチが当たりそうですね。
よく言われているように、肉を100グラム得るためにはその十数倍だか数十倍だかの穀物が必要なわけで、これからは肉はあまり食べられなくなるかもしれませんね。スピリチュアリズムの霊信では「肉は食べないですむならその方がいい」「できれば避けなさい」と言われていますけれども、やっぱり肉はおいしいので、なかなかやめられない。まあ、私のような人生の終末が近づいているような年代は、だんだん少なくしていくのがいいでしょうし、務めかもしれません。
白米ではなく玄米を食べるようにするとか(私も一応やっています)、雑穀にも挑戦してみるとか。
雑穀は一時健康にもいいとかでブームがありましたね。お米に混ぜて炊くと、それなりに味わいがあって面白いものですけれども、それだけとか、ずっとそればかりというのはたぶんきついのでしょう。300年?ほど前は、山間部ではヒエやアワが常食で、白米はごちそうだったようですね。お米を毎日食べられるというのも、改めて考えてみれば相当贅沢なことだとも言えます。
じゃあ雑穀にシフトするかといっても、今はあまり作られていないし、精白する機械がほとんどないそうです。そういうせいか、結構値段も高いようです。雑穀が贅沢品になってしまったということでしょうか。
私は1955年東京生まれですけど、小さい頃は、肉は高かったからあまり食べられませんでしたね。特に牛肉は高くて、めったに口にできなかったように思います。腹をふくらませるのはもっぱらデンプン質。まあ、その時代に戻ったと思えばいい……
そう言えば、生家は東京の新宿区なのですけど、古い家(関東大震災前の家)だったせいもあって、小さい頃は風呂は母屋とは別に外にあって、薪と石炭で沸かしていました(当時は自家に風呂がなかった家も多かったと思います)。紙ゴミやミカン箱の木ぎれなどを燃やして、火が大きくなったら石炭を入れるわけですけど、火を燃やすのは好きで、しょっちゅうやらせてもらっていました。風呂は木桶で、釜の上に「上がり湯」という区切られた部分があって、上がる時だけそれを使う。むしろ銭湯の方が贅沢だったかも。ガス釜や湯沸かし器というのはけっこう後になってからのような記憶があります。
その後、山歩きが好きだったこともあって、だから私は、キッチンにある「ガス瞬間湯沸かし器」を使っているとしばしば「なんかありがたい機械だなあ」と感心します。幼い頃の生活や、山での「サバイバル状態」の記憶から、「一杯の温かい湯」がどれだけ貴重なものかという記憶があって、ボタンを押すだけでじゃばじゃば湯が出てくるのが、不思議というかもったいないというか、そういう感覚があるのです。山へ入ったら、飲める水を探すのも大変、冷気や風の中でそれを温めるのも大変。熱いインスタントコーヒー一杯が、とんでもなく手間のかかるものだったわけですから。ましてや、毎日お風呂に入るなんて何と贅沢かと今も少し申し訳ない気分があります(単なる貧乏性のジジイかw)。
そういえば、被災地の累々たる瓦礫のど真ん中で、即席の露天風呂に入っている人の写真をAFPだかが配信して、外国人がびっくりしていたらしいですね(http://news.livedoor.com/article/detail/5495202/)。悲劇と忍耐の後のこのお風呂、涙が出るほど感激でしょうねえ。
何の話だかわからなくなった、というか、もともと雑談だからどうでもいいのだけど。
まあ、たぶん今の50歳前後より上の世代は、贅沢ではない生活を知っているから、多少免疫はあるかな、と。その後のバブリーな世代にはどうかわかりませんが。(なんかどんどんジジ臭くなっていくなあw)
「物質的欲望追求の時代は終わる」というのは言い古されてもうあまりインパクトすら持たない言葉ですけれども、また、物質的欲望追求はそう簡単に終わるわけでもないと思いますけれども、さらに言えば追求は逆境で返って強くなる可能性もありますけれども、まあ、できるだけ我が身を軽くして、あまりきりきりしないようにするのがいいのかもしれませんね。古い世代は昔を思い出して。
* * *
このところ、『霊的治療の解明』を連載したこともあって、更新が頻繁になりましたけれども、一段落で、少し間延びするかもしれません。時事ブログのようにいつも話題があるわけではありませんし。ちなみにbirch99さんは少しお休みとのことです。
なんかコメも稀になってきてちと淋しいですが(笑い)、よろしければお気楽にどうぞ。なお、礼儀に欠けるものや一方的な開陳など不快を感じさせるものは、こちらの判断で削除することがありますのでご了承ください(その方が逆に書き込みやすいかなとも)。
皆様のご訪問を感謝しつつ。
いつまでも寒いですね。今年は気候も変なのでしょうか。
ずいぶん雨も降らなかったし。このまま空梅雨だと、水がやばそうです。
ただでさえ、電力不足でどうのこうのの夏になりそうなのに、水までないと地獄ですね。
まだ関東では余震も続いていますし、次は富士山か東南海かといった予言もあります。
あの500㎞×200㎞という巨大な地殻変動の後ですから、何かあっても不思議ではないです。
買い占めはよくないけれども、非常用備蓄は準備しておくのがいいでしょうね。
別にカタストロフ予言を煽るわけではありませんけど、この大震災で見えなくなっていることですが、「世界的食糧危機」も迫っています。短期的にはオーストラリアやアメリカや中国の異常気象のせいですけれども、中期的に、中国・インドなどの国々の生活水準が上がれば、穀物消費(食肉のための飼料も含めて)は、飛躍的に増大することは間違いないわけで、これは不気味な傾向です。
今、イスラム諸国で起きている内乱も、民主化要求というよりも、穀物(特に小麦)の暴騰が大きな要因だとも言われています。
日本は現在も、どういうわけか円高維持なので、すぐには問題化しないようですけれども、そのうちどうなるかはわかりません。
原発問題で今後電力がどうなるかもわかりませんし、どうもこの先、これまでのような潤沢な消費生活はできなくなるのではないかと思われます。
現状では、日本は海外から2000万トンだかの食糧を輸入して、1000万トン以上の食品を廃棄しているとか(数字はあやふやです)。こういうことをしているとやはりバチが当たりそうですね。
よく言われているように、肉を100グラム得るためにはその十数倍だか数十倍だかの穀物が必要なわけで、これからは肉はあまり食べられなくなるかもしれませんね。スピリチュアリズムの霊信では「肉は食べないですむならその方がいい」「できれば避けなさい」と言われていますけれども、やっぱり肉はおいしいので、なかなかやめられない。まあ、私のような人生の終末が近づいているような年代は、だんだん少なくしていくのがいいでしょうし、務めかもしれません。
白米ではなく玄米を食べるようにするとか(私も一応やっています)、雑穀にも挑戦してみるとか。
雑穀は一時健康にもいいとかでブームがありましたね。お米に混ぜて炊くと、それなりに味わいがあって面白いものですけれども、それだけとか、ずっとそればかりというのはたぶんきついのでしょう。300年?ほど前は、山間部ではヒエやアワが常食で、白米はごちそうだったようですね。お米を毎日食べられるというのも、改めて考えてみれば相当贅沢なことだとも言えます。
じゃあ雑穀にシフトするかといっても、今はあまり作られていないし、精白する機械がほとんどないそうです。そういうせいか、結構値段も高いようです。雑穀が贅沢品になってしまったということでしょうか。
私は1955年東京生まれですけど、小さい頃は、肉は高かったからあまり食べられませんでしたね。特に牛肉は高くて、めったに口にできなかったように思います。腹をふくらませるのはもっぱらデンプン質。まあ、その時代に戻ったと思えばいい……
そう言えば、生家は東京の新宿区なのですけど、古い家(関東大震災前の家)だったせいもあって、小さい頃は風呂は母屋とは別に外にあって、薪と石炭で沸かしていました(当時は自家に風呂がなかった家も多かったと思います)。紙ゴミやミカン箱の木ぎれなどを燃やして、火が大きくなったら石炭を入れるわけですけど、火を燃やすのは好きで、しょっちゅうやらせてもらっていました。風呂は木桶で、釜の上に「上がり湯」という区切られた部分があって、上がる時だけそれを使う。むしろ銭湯の方が贅沢だったかも。ガス釜や湯沸かし器というのはけっこう後になってからのような記憶があります。
その後、山歩きが好きだったこともあって、だから私は、キッチンにある「ガス瞬間湯沸かし器」を使っているとしばしば「なんかありがたい機械だなあ」と感心します。幼い頃の生活や、山での「サバイバル状態」の記憶から、「一杯の温かい湯」がどれだけ貴重なものかという記憶があって、ボタンを押すだけでじゃばじゃば湯が出てくるのが、不思議というかもったいないというか、そういう感覚があるのです。山へ入ったら、飲める水を探すのも大変、冷気や風の中でそれを温めるのも大変。熱いインスタントコーヒー一杯が、とんでもなく手間のかかるものだったわけですから。ましてや、毎日お風呂に入るなんて何と贅沢かと今も少し申し訳ない気分があります(単なる貧乏性のジジイかw)。
そういえば、被災地の累々たる瓦礫のど真ん中で、即席の露天風呂に入っている人の写真をAFPだかが配信して、外国人がびっくりしていたらしいですね(http://news.livedoor.com/article/detail/5495202/)。悲劇と忍耐の後のこのお風呂、涙が出るほど感激でしょうねえ。
何の話だかわからなくなった、というか、もともと雑談だからどうでもいいのだけど。
まあ、たぶん今の50歳前後より上の世代は、贅沢ではない生活を知っているから、多少免疫はあるかな、と。その後のバブリーな世代にはどうかわかりませんが。(なんかどんどんジジ臭くなっていくなあw)
「物質的欲望追求の時代は終わる」というのは言い古されてもうあまりインパクトすら持たない言葉ですけれども、また、物質的欲望追求はそう簡単に終わるわけでもないと思いますけれども、さらに言えば追求は逆境で返って強くなる可能性もありますけれども、まあ、できるだけ我が身を軽くして、あまりきりきりしないようにするのがいいのかもしれませんね。古い世代は昔を思い出して。
* * *
このところ、『霊的治療の解明』を連載したこともあって、更新が頻繁になりましたけれども、一段落で、少し間延びするかもしれません。時事ブログのようにいつも話題があるわけではありませんし。ちなみにbirch99さんは少しお休みとのことです。
なんかコメも稀になってきてちと淋しいですが(笑い)、よろしければお気楽にどうぞ。なお、礼儀に欠けるものや一方的な開陳など不快を感じさせるものは、こちらの判断で削除することがありますのでご了承ください(その方が逆に書き込みやすいかなとも)。
皆様のご訪問を感謝しつつ。
毎日楽しみに読ませてもらっております。
>一段落で、少し間延びするかもしれません。
だなんて、そんな事言わないでどんなことでもいいですから
書いてくださいよ。
表には出なくても、このブログを楽しみにしてらっしゃる
方々は結構な数にのぼると私は推察しておりますです。
暖かいお励まし、ありがとうございますm(_ _)m
できるだけあれやこれや、がんばってみますw
少しは読む人の役に立つようなことも書かないといかんかなとも思ってます。