スピリチュアリズム・ブログ

東京スピリチュアリズム・ラボラトリー会員によるブログ

現世をどうするか(3) スピリチュアリズムの「勧戒」

2011-04-22 00:24:50 | 高森光季>スピリチュアリズム霊学

 スピリチュアリズムを「自己謙遜による恩寵の期待」「受動的」と言いましたが、「何もかも神の御心に任せていればよい」といった消極主義、運命論であるように誤解されるといけません。
 スピリチュアリズムの霊信は、人間が努めるべきこととしていくつかの見解を示しています。(もっぱら「こうした方がいいよ」=勧戒で、「こうしてはいけませんよ」=禁戒ではない表現です。)
 たとえば『霊訓』のインペレーターは、次のように教えています。

 《徒らに沈思黙考に耽り、人間としての義務を疎かにする病的信仰は、われらは是認するわけにはいかぬ。……われらが目を向けるのは実際的生活であり、それはおよそ次の如く要約できよう。
 父なる神を崇め敬う(崇拝)……神への義務
 同胞の向上進歩を手助けする(同胞愛)……隣人への義務
  *(意見を異にする人に寛大であること、他人の疑わしい言葉や行為を好意的に解釈すること、人との交際において親切であること、報いられると思わずいつでも人を助けること、振る舞いが丁重で優しいこと、目的の正直と高潔さが愛情ある親切と忍耐で和らげられていること、人の悲しみを理解しうる同情心をもつこと、慈悲・哀れみ・優しさを持つこと、それぞれの領域の権威に対する敬意、また弱者の権利に対する敬意を持つこと。)
 身体を大切にする(肉体的養生)……自己への義務
 知識の獲得に努力する(知的進歩)……自己への義務
 より深き真理を求める(霊的開発)…… 自己への義務
 良識的判断に基づいて善行に励む(誠実な生活)…… 自己への義務
 祈りと霊交により背後霊との連絡を密にする(霊的修養)…… 自己への義務
 以上の中に地上の人間としての在るべきおおよその姿が示されておる。》(8節)
  (なお、*印を付けた( )部分は、現行の日本語訳[近藤千雄氏訳]では欠損している個所です。)

 「父なる神」というのは時代に合わせたいささか古い表現ということで、あまり気にしないようにお願いします。創造主、絶対存在、至高精神、大宇宙、大神……表現はなんでも結構です。
 健康と知的探究に努め、善行に励みなさい、ということで、ある意味ではごく普通の道徳が説かれています(当たり前過ぎてつまらないと思う人もいるでしょう)。スピリチュアリズムらしい教えは、「祈りと霊交により背後霊との連絡を密にする」ということです。

 シルバー・バーチは「霊性の自覚」「奉仕」「行動」を強調します。いろいろな言い方がなされていますが、自らが永遠の成長を続ける霊であることを自覚し、自我を抑えて善行と奉仕を実践していけば、そこに「同じく人々に奉仕しようと欲している高級霊」の助けが必ずある。それはどんな奇跡的現象や高次霊界体験よりも意義のあることだ、ということだと思います。特別な修行やそれによって得られる特別な体験よりも、この荒々しい地上の困難に立ち向かいつつ奉仕の道を貫くこと(それはそれでとても大変なことでしょう)の方が、はるかに素晴らしいということです。「それぞれに合った霊性開発法」があるとは言っていますが、最も大切なことは、内面の静けさに戻り、良心の声を聞くことだと言っています。

 《神の力とエネルギーと援助を呼び込むための手段は常に用意されています。しかしそのためには時には魂の奥の間に引きこもり、その静寂の中でできるだけ神との融合を保つことを怠ってはなりません。》(『シルバー・バーチの霊訓』第1巻、近藤千雄訳、84頁)

 《みずから魂を高揚させなければなりません。高き憧憬を抱き続けなければなりません。魂の受容性を高めねばなりません。内的意識を拡大していかねばなりません。しかし、それが順調にいくだけ、それだけ多く霊界からの生命力が流れ込むことになるのです。》(同第4巻、197頁)

 つまり、修行などによって自己を強化し霊能力を開発するのではなく、自己を徹底して虚しくしていくことによって、そこに「助けようとしている高級霊」の支援を引き寄せるということだと思われます。これは智と力の獲得によって自己拡大していくオカルティズムの志向性とはまったく逆です。

 《忙しい時間のいくばくかを割いて、背後霊との霊的な交流をもつことを心掛けてくださると、背後霊はとても助かります。背後霊とのつながりを求め、たとえ表面的には何の反応もなくても、霊的にはかならず何かが起きているものです。……心を空にして穏やかな気持の中で精神を統一するだけで十分です。その統一状態の中で霊の力が働くのです。そうした静かな精神状態というのが、物的生活に振り回されている騒々しさに一時的なストップをかけることになります。そのわずかな時間を霊性の開拓と、自宅内での霊的存在の認識へ向けたことになります。地上の人間は静かな精神状態をもつことの効用を十分に認識しておりません。私がよく申し上げているように、あなた方にとって無活動の時が私たちにとって活動の時なのです。あなた方が静かに受身の心でじっとしている時が私たちにとって一ばん近づきやすいからです。》(同第7巻、101頁)

 《なぜ祈るか。それは、祈りとはわれわれのまわりに存在するより高いエネルギーに波長を合わせる手段だからです。その行為によってほんの少しの間でも活動を休止して精神と霊とを普段より受容性に富んだ状態に置くことになるのです。わずかな時間でも心を静かにしていると、その間により高い波長を受け入れることができ、かくしてわれわれに本当に必要なものが授けられる通路を用意したことになります。》(同、199頁)

      *      *      *

 結局、スピリチュアリズムの教えでは、へたに霊能力の獲得をめざすよりも、普通の人間として、健全に、かつ道徳的に生きなさい、そして、自己を捨てて守護霊・高級霊の助力を仰ぎなさい、ということになるかと思われます。そして最も推奨される営為は「祈り」(瞑想・精神統一といったものを含む)だということです。
 これについては、TSLホームページの「祈りについて」に主だった霊信からの教えをまとめてありますのでご参照いただければと思いますが、いくつか引用します。強調したいのは、祈りというのは「何か自分が望むことの実現を願う」ものではないということです。

 前にも掲載しましたが、モーゼズ『霊訓』にはこうあります(超訳です。http://blog.goo.ne.jp/tslabo/e/52ac5d448e785092523ace2d0b569d8f)。

 《本当の祈りというものは、あなたを見守り、導こうとしている「守護霊」への、魂の奥底からの叫び、まっすぐな感情・願いでなければなりません。……あなたの魂の真底からの願い――成長したいという切実な願い――を読み取り、その道筋をはっきりと示してあげようとする守護霊がいます。祈りとは、そのお方へ向けての切実な訴えかけです。それを聞けば、守護霊はさらに高級な霊にそれを伝え、「この訴えにふさわしいものを差し向けてください」とお願いしてくれます。……本当の祈りとは、あなたの魂と、あなたを見守り導いている魂との、この上なく直接的な交わりです。また、あなたが知らない間にあなたの魂が交信している、あなたの仲間の魂たちへの訴えかけでもあります。そうした祈りがなされる時、目には見えない「場」を伝わって、あなたの訴えかけは信じられないほどの早さで届けられます。そして、それに答えようとする霊たちの働きかけも、また信じられないほどの早さで返されます。その一連の動きこそが「祈り」の本質なのです。……けれども、こうした祈りが実現されるには、日頃の鍛錬が必要です。日々、あなたの魂を見守り導く魂があると思い、その魂に向けて余計な計らいを捨てて、熱く素直に訴えられるようにする必要があります。それは運動のようなもので、日頃から鍛錬しないと、いざという時にうまく働きません。繰り返し繰り返し練習することで、初めてその熱さと素直さを実現することができるのです。》

 シルバー・バーチは「必ずかなう祈り」があると言います。

 《宇宙の霊的生命とのより完全な調和を求めるための祈りもあります。つまり肉体に宿るが故の宿命的な障壁を克服して本来の自我を見出したいと望む魂の祈りです。これは必ず叶えられます。なぜならその魂の行為そのものがそれに相応しい当然の結果を招来するからです。》(前掲、第3巻、220頁)

 マイヤーズ通信から。

 《沈黙と孤独のなかにあってこそ、われわれはすべての仮装と虚飾を投げ捨て、人生の虚飾と見せかけを振り捨てることができる。われわれは今や問題を厳しく直視し、われわれ自身を、弱々しくであるが振り返ってみようと努力する。この反省を超えてさらに進んだとき、受動状態で神に聴く瞑想へと入っていくのである。……最初は沈黙のなかに自己の霊のかすかな光を見る。そしてその光に刺激される。しかしまだ「非我」との接触はない。これはまだ統一の初段階なのである。第二の状態に入ったとき、意識は魂の世界に気づく。第三に、これが最後の段階であり、それには多くの労苦と探求の道のりを覚悟しなくてはならないが、静寂の中で「神に聴く」(永遠の霊――内在意識の知覚によってのみ捉えられる――についての触知しえない感知力)段階に達するのである。》(カミンズ『人間個性を超えて』梅原伸太郎訳)

 祈りは、日々の儀式ではなく、「霊的実践(プラクティス)」だということです。オカルティズムのような厳しい修行ではありませんが、真剣に実践すべき「霊的行動」です。

 なお、インペレーターが言及しているように、この際に「愛」「憧憬」「希求」といった感情的な熱意も重要のようです。冷徹な不動ではなく、純化された感情が力になるのです。
 梅原伸太郎先生は『霊的治療の解明』の解説で、次のように言っています。

 《すべての宗教的儀礼や、民間信仰における呪的行為はこの〈霊的な心〉を浮上させ、活性化させるという目的に沿う場合においてのみ有効なのだと考えるべきであろう。感情作用は、西洋の合理主義的伝統の中では、しばしば無用の長物であるか悪しき影響力の源として語られているが、実のところそれは人間の心の全体の中における一つの自然であり、重要な働きを担っている。霊的な情操も一つの感情状態であるが、心頭を滅却するからといって、この霊的情操状態までを放擲してしまう必要は全くない。感情や情操は、霊的なものが互いに作用し同調する際の同調の帯域の質的決定に役立っており、また同調のための目印ともなっている。霊的治療において基本的な「愛」の心の状態が必要とされるのは、こうした同調のための実際的必要からも要請されるのだと理解すべきである。》

 ちょっと難しい文章ですが、「霊的情操状態」とは、愛や慈悲にあふれた心の状態で、それがあるがゆえに、同じ情熱を持つ高級霊と共振・協働して霊的治療という素晴らしい事業が可能になる、ということでしょう。

 私はなまくら者で何かを言える資格はありませんが、真摯に祈れた時には、何かしらの「応え」があることは確かだと思っています。それははっきりした形の現象ではなく、悩んでいたことへのぼんやりとした示唆とか、驚くような符合(いわゆる「シンクロニシティ」)とか、自然の中に表われるサインとか、そうした曖昧でかすかな形で、示しはあります。優れた人たちは、こうしたことがもっと強烈に起こるのだろうな、とすればそれは素晴らしい霊的事業となるのだろうな、と思います。

      *      *      *

 こうした志向性は、能力のある人、独創性・独自性を求める人、自己拡大を求める人には、何となくつまらないものに映るかもしれません。才人や自らの知性を恃む人たちは、スピリチュアリズムは凡庸とか愚直と感じるようです。それはそれでわからないでもありません。ぶっちゃけて言えば、スピリチュアリズムには「あなたたち人間は幼稚園生なんだから、そんな大したことはできないよ」と言っているところがあって、才や力を恃む人たちはカチンと来るのかもしれません。

 とはいえ、スピリチュアリズムは別に霊的な修行や訓練を全否定しているわけではありません。「とにかく奉仕しなさい」と強調するシルバー・バーチですら、次のように言っています。

 《いかにすればこの〔人間誰もが持っている〕驚異的な潜在的神性を意識的に発現させることができるのでしょうか? それに関しては地上には各種の学説、方法、技術があります。いずれも目指すところは同じで、脳の働きを鎮め、潜在的個性を発現させて本来の生命力との調和を促進しようというものです。要するに物的混沌から抜け出させ、霊的静寂の中へと導くことを主眼としておりますが、私はどれといって特定の方法を説くことには賛成しかねます。各自が自分なりの方法を自分で見出していくべきものだからです。》(前掲、第1巻、155頁)

 「幼稚園生」なりの修行――それはどんなものがあるのか、ぼちぼちと考えてみたいと思います。


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1 コメント

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これこそまさに・・・ (JIJIRO)
2011-04-22 08:54:47
昨日の今日で出来すぎのような気がしますが、これも
シンクロの一種だということでコメントさせてもらいました。

まさに私を一番勇気づけ元気づけてくださる文章でありました。
本当にありがとうございます。
さっそく kindle に落とし込んでじっくりと何度も読ませて
いただきます。
哂われるかもしれませんが、涙が出るほど嬉しいです。
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