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達人たちの仏教 ⑦達人の役割

2011-08-10 00:03:41 | 高森光季>仏教論3・達人たちの仏教

 「達人」あるいは「プロ宗教者」は何を俗人に与えうるのか。
 西洋諸学問がはいってきたせいもあって、もはや仏教哲学(とそれに付随する知)は、ごく一部のファンを除いて、俗人が絶対必要とするものではなくなりました。まあ、今の仏教者や仏教学者は、それでも俗人に役立つ知があるよと説得を続けていて、それなりに受容者は得ているようですが、全体から見ればごく一部分に過ぎません。寂聴さんなんかが人気を博して、それに影響されてお寺に足を運ぶ人もいるのでしょうけれども、数が多いわけでもないし、お寺がそれに対応できるかどうかも……
 「開祖はこんなありがたいお言葉をおっしゃってます」的なお説教では、現代人は納得しないでしょう。相当ひねた(笑い)現代人に訴えるような仏教の叡智を再構築できるのか、それはなかなか困難なように見えます。ましてや、唯物論に反するものを一切取り下げてしまったら、果たして何が語れるのか……(空に代表される反実在論を、量子論的科学に重ねて展開しようとする人たちもいますが、そこから「生きる思想」が生まれてくるのでしょうか。「頭の体操」になっていないでしょうか。)

 むしろ、だからこそ返って、密教と禅の「達人性」は残るのではないでしょうか。密教(真言宗のみではない)がきちんと加持祈祷をして神秘的利益を与えてくれるのなら。禅が「瞑想の達人」として、素人の精神修養を指導してくれるのなら(純粋な禅者はそんなことを求めていないのかもしれませんがw)。
 そしてこの二つは、どうもあまり表に出ないものの、結構な繁盛をしているのではないでしょうか。

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 「葬式仏教」という批判に関しては、改めて述べる必要もないでしょう。
 伝統や見栄として読経や戒名を頼む人は、明らかに少なくなっていくでしょう。それに、お経を読んでいるお坊さんが、「霊魂を認めません」というのは、やはり欺瞞です。「向こうが頼んでくるんだから仕方がない」というのは、あまりに情けない言い訳で、「お客さんがどうしてもと頼んでくるから、小麦粉で作った偽薬を睡眠薬として売っています」というのと変わりないでしょう。
 曹洞宗に関係しているある学者さんは、こうおっしゃっていました。
 《私の知っているもう亡くなられた有名大学の仏教学者さんは、本職は僧侶で、お葬式もきちんとやっておられました。その方は、「お葬式でお経を読んでいると、その死者がすっと向こうへ行くか行かないかがわかる。逡巡している時は、ひときわ念を込めて成仏するように祈る。そうすると、ああ、行ったなというのがわかる」とおっしゃっていました。その息子さんも有名大学の仏教学者さんですが、その人は学問一辺倒で、全然そういうことはわからないそうです。》

 現代人の多くは無自覚的タテマエ唯物論者です。唯物論なら、死は消滅だし、遺体は廃棄物だから、葬儀などは要らないはずですけれども、やはり葬式はやる人がまだ多い。お墓も造る。見栄があるとか、遺族の悲しみを安らげる儀式だとか、いろいろな説明がありますけれども、どうも単にそれではすまないところがある。
 唯物論だけれども、親しい故人の霊だけは何となく(あるいは一時的なものとして)認める、というダブル・スタンダードがあるのかもしれません。あるいはもっと無意識的に、「死に伴う何かよからぬこと」を回避しようとする志向があるのかもしれません。
 それは時に「祟り」とか「穢れ」と表現されます。

 2ちゃんねるの「ホラー話」(実話・作話両方あり)には、「変な霊に憑かれた」あるいは「呪いを受けた」話が非常に多くあるのですが、そこにしばしば颯爽と登場するのが「僧侶」「神主」です。彼らは何が起こっているか判定し、それにふさわしい処置をしてくれるというのです。(もっとも最近は、「まーたこれかよ、こんな坊主や神主なんてどこにいるんだよ」などという揶揄も書かれています。)
 やっぱり何かあった時は、専門宗教家に頼みたい。それが一般人の心理のようです。

 私は以前、度々寄せてもらった禅宗のお寺(地方です)がありまして、ある時、そのお礼もかねて、大祭のお手伝いをしたことがあります。で、何をしたかというと、「お焚き上げ」でした。前庭にコンクリートブロックを組んで、そこで去年の御札を焼く。火を燃やすのは好きなので(放火魔ではありませんw)、張り切ってやることにしました。
 ところが、そこへ持ち込まれるものの中に、人形などがあります。本当はそういうものはそこで焼いてはいけない。ダイオキシンがばんばん出ます。でも、持って来る人が多い。中にはガラスケースに入ったままの豪勢な日本人形もある。処分したいのだけれども、ゴミに出すのは何となく憚られる。そこでお寺さんにお願いして、ということになるわけです。
 その後、焼くのは断わってお祓いだけするようになったようですが、その時は、まだそういう方針もなかったので、仕方なく、とにかく燃やせるものは燃やしました。
 あまりいい気分ではありませんでした。こっちだって、祟られるのはいやです(笑い)。しかし、一度「臨時寺男」を引き受けた以上、仕方ありません。「ここはお観音様が守ってくださる、ネンピー観音力!」と自らを鼓舞し(笑い)、やっていたのですが、そのうち、だんだん、「ええい、祟りがあるならこっちが引き取ってやる」といったヤケクソかつヒロイックな気持ちになっていきました。まあ、無事何事もありませんでしたが(笑い)。
 その時に、「ああ、宗教者というのは、そういう穢れや祟りを引き取る役割もあるんだなあ」と身をもって感じました。

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 宗教学者で駒澤大学名誉教授の佐々木宏幹先生は、こうした庶民仏教のあり方を「生活仏教」と名づけ、そこに日本の宗教文化の基層にある「アニミズム・シャーマニズム」の影響を指摘しています(『仏力』『仏と霊の人類学』など)。
 一般庶民がお坊さんを有り難がるのは、つらい修行をし、大本山から認定を受けたことで「法力」を身につけているからである。庶民はその「パワー」をもらうため衣に触れたりするし、そういう人の読むお経にもパワーがあって、死者の魂をあの世に送ったり、邪霊を祓ったりすることができる。そういうアニミズム的な捉え方で仏教を受け取っているのであって、教祖の教えや難解な仏教哲学はあまり関係がない。――おおまかにはこのような主張をされています。

 要するに、日本人の精神の深層には、無意識の霊魂主義があって、庶民の仏教受容はそこに結びついている。それは、死後他界とか生まれ変わりといったことに関して、はっきりした考えを作り上げはしないけれども、祟りとか穢れといったネガティブな形では強く意識され、表現される。そしてそれに対処する役割として、「法力」を身に帯びた仏教者が必要となる、ということでしょう。
 だから、日本人が浄土とか輪廻とか戒名とかを信じていなくても、死者儀礼を僧侶に委ねるというのは、「祟り」「穢れ」を鎮撫してもらいたい、あるいは引き受けてもらいたいからだと考えられます。まあ、葬式に来てくれるお坊さんは、外車なんか乗り回して何となく頼りないけれども、一応修行したからある程度の「法力」は帯びているだろうし、そのお経もそうだろう。その力があれば、変な事は起こらないだろうし、万が一起こったとしても、責任を取ってくれるだろう、というわけです。(穢れの問題はちょっと複雑なので、置いておきます。)

 こういったことは低級なものだと言えません。
 ある宗教学者さんはこう言いました。「宗教の要諦は、死者が迷ったり祟ったりせず、あちらへ行けるようにすることだ」。すごい喝破です。
 このことはスピリチュアリズムにもあてはまります。スピリチュアリズムの核心は、人間が不滅の霊魂であり、永遠の成長を続けるものだと気づくことにあります。我欲執着を残して地上付近をうろつくことなく、成長の大切さを自覚して、高い世界をめざすようにと教えているわけです。
 キリスト教も、「神のみ旨に沿った生活をして、無事に天国へ行きましょうね」という宗教です(ただし外れたものを処置する手段がない。残酷ですw)。
 禅は、この世で見性する(悟る)か、あるいは何世もかかるかは別として、捕らわれない精神を獲得し、無事仏になりましょうということでしょう。
 密教は諸仏諸天諸菩薩の力に助けてもらい、生きている人間を悟りに向かわせ、迷ったり祟ったりしている霊を成仏させる、と言えるでしょう(“密教”だからわかりませんが)。
 浄土教はまさしくこれに集中した宗派でしょう。
 法華経はちょっと違うのか……

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 霊魂の問題なのだ、霊魂が他界へ行くことの問題なのだ、と捉えれば、実は仏教も諸宗教も、とっても明快になるのではないでしょうか。死後存続を認めなければ、キリスト教も仏教(のほとんど)も、成り立たないでしょう。
 いつまでブッダの「無記」に捕らわれているのでしょう(しかしとんでもない言葉を残してしまいましたねえ)。中観や唯識の哲学は華麗かもしれませんが、そうした煩瑣哲学への没頭がインド仏教を滅亡に導いたことは忘れられているのでしょうか。輪廻を当然の前提とした祖師たちの教えを、アクロバティックに「反死後存続説」で読み換える近代教学に、どういう意味があるのでしょう。それは高層湿原の草花を荒れ地に植え替えようとするのと同じではないでしょうか。
 どうしても唯物論の枠外に出ることがいやなのなら、残るのは、精神衛生学、精神修養術としての禅くらいのものでしょう。「反死後存続説」を取るのなら、いっそ潔く葬儀や祈祷から撤退して、「なにものにも動じない境地」を作る「修行」(禅・荒行)だけに絞ったらいかがでしょう。
 いや、それともウィルバーが展開したようなやり方で、「内的体験」にすべてを収めつつ、仏菩薩や浄土を語る可能性があるのでしょうか。


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