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達人たちの仏教 ④禅・個人的回想から

2011-08-07 00:03:16 | 高森光季>仏教論3・達人たちの仏教

 個人的な話で恐縮ですが。
 つらつら思い返してみると、習俗(葬儀)ではなく、仏教の思想と出会ったのは、三島由紀夫『金閣寺』だったと思います。金閣寺は臨済宗(相国寺)ですから、臨済録の言葉がちょこちょこ出てくる。特に「南泉斬猫」の話が強烈でした。
 社会に出て(おお、もう30年以上も前だ)、まわりにちょぼちょぼ禅マニアがいまして、その影響で『臨済録』とか禅問答のまとめ本なんかを読みました。けっこう面白かった記憶があります。何がかというと、「精神の自由」みたいなものでしょうか。
 《仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺し、始めて解脱を得ん。》(『臨済録』)
 実際に参禅したりはしなかったわけで、あくまで外側から「嗅いだ」だけですが、「かっけえ~w」と感じました。何かを崇拝したり頼ったりではなく、すべての固定観念・既成価値を壊して、自己が絶対境をめざしていく。ニーチェにも通じるところがあります。
 まだ若くて、必死に自己拡大・自己強化をめざしていた時期でした。死の問題なんか考えることもありませんでした。

 その頃、こんなことが話題になりました。
 ある禅宗の僧侶で、お師家さんから「見性」を認可された(つまり「悟った」と認められた)人が、癌の宣告を受けて、自殺してしまったのです。
 私もありゃ?と思いましたし、まわりでもいろいろと意見が飛び交いました。
 人の生死を裁く権利は誰にもありませんし、そのつもりもありませんが、当時、私も含め、ちょっとそりゃないんじゃないかな、という感想を持った人が多かったことは否定できません。

 その後、京都学派のものをちょっと囓ったり、果ては「事的世界観」云々も読んでみたりしましたが、「こりゃ俺にはむりぽ」とあきらめました。読んでいると面白いのですけど、読んだ後、「で?」みたいな感じになるのでした。
 それから後は、全然遠ざかって、すっかり忘れました。やはり無縁の衆生だということでしょうか(笑い)。

      *      *      *

 禅も達人宗教ですから、その道に入って多年修行して、達人にならないとその中核はわかりません。
 だから素人が論じることはできません。禅僧の語録があって、それを読むことはできますけれども、理解したなどということは言えません。おまけに禅宗では固定化した教義を嫌いますから、「このあたりに本義があるらしいよ」と言うこともできない。まあ、わけのわからないものがあって、素人はそのあたりから匂ってくるものを嗅ぐくらいしかできないわけです。

 ちなみに言っておけば、密教と同じように、禅は宗派名ではなく、仏教の一部門です。もともとはインドに仏教以前からあった瞑想法のことで(ヨガも同じ)、サンスクリット語の「ディヤーナ=瞑想」の俗語形 jhana が西北インドで jhan と発音されていたのを、中国の漢字で禅と表記した、ということのようです。
 そもそもお釈迦さんが瞑想をして悟りを開いたわけですから、仏教全体と禅は切り離せない。天台では「止観」と呼びます(多少意味のずれがあるようですが)。禅を“専門”とした仏教派閥=禅宗ができたのは唐代の中国のようです。
 密教がお釈迦さんとは直接関係ないのに対して、禅は一応、直伝である(仏教独自のものではないけれども)わけで、禅宗がそういう意味で威張るのは当然。曹洞宗のご本尊は釈迦ですし。

 禅とは何かとは外側からは言えないものですけれども、まあ、それでも外側から、どうやら全体の姿はこういうものらしいと言うことはできる。怒られるのを覚悟で、ちょっと論じてみましょう。
 禅は瞑想による内的体験を基盤にします。体験とそれによってもたらされる言語では表現できない境地が問題なわけです。
 しかしこうしたあり方は、非常に不安定なものです。先ほど「論じることもできない」「わけのわからないもの」と言いましたが、それは禅というものが抱える本質的性質です。なぜなら、内的体験は、定位も明確な把握もできないからです。
 定位も明確な把握もできないということは、低級か高級かも判断できない、つまりそれが悟りであるか、悟りに近いものか、まったく愚かなものであるか、判断できない、ということになりかねません。「体験者は自分の他の体験と比較することで高低・真偽を判断できる」という見解すら、「その判断も内的体験の一種であるから、外部的に判定はできない、当てにならないもの」となります。
 で、どうするか。
 正しい瞑想ができているか、正しい悟りが得られたか、それを「師」が判定することになります。その判定の方法が、「問答」であり、それがさらに定式化されたものが、「公案」というものです。
 師は弟子に、質問を発します。あるいは「片手で拍手する音とは何か」といった定式問題を出します。弟子はそれに対して瞑想を重ね、自分の内的体験や境地から、答えを発します。これは言語的・理知的な問いと答えではありません。師はそこに現われた弟子の境地を判定し、よしとするか、ダメを出すか(あるいはどつくかw)をする。まあ、最初は何を言ってもダメ出しされる。で、あらゆる思念の動かし方を試してみて、ほとんどノイローゼになりかけたところで、突然、それまでの自分のレベルを超えた不思議な「気づき」が得られる。師はそれを褒め、さらに高度な質問をする。――これが洩れ伝わってくる「師と弟子の問答」の神話的典型です。
 なお、臨済宗では、公案が入門的なものから高度なものまで、ある程度教科書的に設定されていて、行者は段階を踏んで昇っていくとされているそうです。それに対して曹洞宗では、基本的に公案は使わず、ただ「只管打坐」で面壁坐禅して、師と対する。臨済宗派は曹洞宗派の禅を「居眠り禅」と批判し、曹洞宗派は臨済宗派の禅を「ハシゴ禅」と批判するのだそうです。
 しかし、いずれにしろ、最重要なのは、「室内」と呼ばれる密室で行なわれる「師との対決」です。その内容は他言無用、絶対秘密とされています。
 つまり、師の絶対優位、師への絶対服従が、禅という「わけのわからないもの」を縛り止めているわけです。
 (ちなみに、禅堂におけるこうした絶対服従の構造をパクったのが大日本帝国陸軍のあの苛酷な兵士教育システムだという説があります。本当か嘘かはわかりません。)
 「師が間違ったらどうするんだ」「師が本物だという証明はどうなっているんだ」というのは、余計なお世話。禅の修行道場というものはそういうものだと設定されているのだから、違うことを言っても無意味です。
 というより、達人システムというのはそういうものであって、達人になるためには達人から直に厳しく指導されなければならない。そのためには誰が達人かを前もってしっかり見きわめなければならないし、弟子入りした以上は師は達人以外の何ものでもないわけです。ただ、禅の場合は、最終的には師をも「殺して」いかなければならないわけですが。

 つまり、外形的に禅のシステムをまとめると、厳格な修行(師への服従、少食・少眠の厳しい戒律生活、そして瞑想)によって、内的体験の質を高め、ついに「見性」(悟り)を得る、それは全面的に師の指導による、ということになります。
 そこで外野からは素朴な質問が出ます。「悟ったらその後はどうなるの?」
 たぶん、これに対して禅宗で統一見解はないと思います。秘密にされているのか、それぞれ(個人・派)に任されているのか、それとも私が無知で知らないだけなのか。
 二つ聞いたことがあります。
 「悟りは一回のものではない。悟ったらさらに次の悟りを求めていく。一生が坐禅修行である。」
 「悟ったら、何ものにも捕らわれない自由が生じる。自由に生きるのである。」
 たぶん前者は道元さんの考え方に近い考え方で、後者は臨済系なのでしょう。前者は一生坐禅とそれに付帯する作務(労働・雑用――ただしそれも禅)、後者は絵画や詩文学など芸術活動へ進んだりもするようです。
 で、このあたりのことが、一般的には「衆生の方を向いていない」と問題にされるわけです。


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