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達人たちの仏教 ③余話・儀式の不思議

2011-08-06 00:03:48 | 高森光季>仏教論3・達人たちの仏教

 これはちょっとスピリチュアリズムの教えからははずれる(というかむしろ反する)ことなので、いささか抵抗があるのですけれども、宗教を考えていく上でははずせないことなので、書いてみることにします。ちょっと与太話になりそうですが(いつもそうだろうがw)。

 密教の中心は「修法」(ずほう、しゅほう、すほう)です。加持祈祷の行ないですね。
 ちゃんとした資格を持った僧はこれを修することによって、霊的存在とつながることができ、その助力をもらうことができる(近代教学では違う説明をするのでしょうか)。
 これはエソテリズム(秘教)に分類される宗教にはおそらくすべて見られるでしょう(近代に生まれた神智学にも見られます)。そればかりではなく、秘教を標榜していない神道とかヒンドゥー教とかにも、類似の“儀式”があります。魔方陣、曼荼羅、灌頂壇、祭司就任儀式、悪魔祓い……
 一定の設備を作る。音楽や香を用意する。印契(ムドラー、手で様々な形を作る)を組み、真言(マントラ)などの“呪文”を唱える。
 これは一体何だろう、と。
 密教の中心部分は秘密ですからわからない、言えない。
 一部の神道ですと、たとえば「九字」を切る。これによって魔を祓うわけです。密教由来の印契も組む。一般信者にも教えます。ただし、神道では説明はなし。古来の修法だから、と言われるだけで、なぜそれが効くのか、何がどうなってどう作用するのかは、不問。
 なぜ特定の手の形や短い言葉で、神々や霊的存在と交渉が成立するのか。
 単に古代的心性の「魔術的思考」のゆえで、事実とは関係しない?
 いや、こうした行為によって、何かが起こっていることは否定できないように思います。
 形ばかりの無意味な儀式もありますが、明らかに何かが起こったとしか思えない儀式もある。
 何が起こっているのか。
 もし神霊がそれによって発動するのなら、それはなぜか。

 故・梅原伸太郎先生は、こんなことを言っていました。
 「印とか真言といったものは、神霊との契約なんですよ。それを結ぶ、唱えることによって、ほとんど自動的に神霊が動くことになっている、そういう契約のサインなんです。だから無闇やたらにやってはいけないものです。」
 ずいぶん昔の話で、当時はそんなことがあるのかなあと思っていました。今でも、そういうことはありだろうなあと思いつつも、心底納得しているわけではありません。

 特定の神霊と契りを結ぶ。これは実は一般的宗教行動の一番中核にあるものかもしれません。「結縁(けちえん)」という形で契約を結び(相手は神仏の場合もあれば祖師・大師の場合もある)、日頃崇敬を捧げることでいわば「契約金」を積み立て、危急の際(病気・災厄・死)には、助力をいただく。日本人はモーセが神と契約したなどと聞くと奇異な感じがしますけれども、もっとゆるゆるな、お気軽な形では、結構神仏と契約をしていることになるのかもしれません(笑い)。いい加減で甘えが強い日本人は、結縁しただけでもう安心と思っているのかも(笑い)。ヤハウェだったら「そんないい加減な信仰があるか」と激怒して火を降らせることでしょう(笑い、あ、笑ってはいけないかな)。
 御守りや御札もその契約の印なのでしょうけれども、儀式・修法・祭礼はもっと強力なものということなのかもしれません。前者がまあ下っ端の部下を派遣するくらいなのに対して、後者はおんみずからおいでくださる、とか。
 ほかにも「血脈」とか「戒名」といったものも、要するにこういう「契約」ということでしょう。声明念仏もそう捉えられるかもしれません。日本仏教や神道の大衆的行為は、まさしく「結縁」によって成り立っている。
 ただ、御守り・御札や、印契、真言といったものは、だんだん、それ自体に神秘的なパワーがあると捉えられるようになった。もっとも「古代的心性では言葉や記号がそれ自体神秘力を持っているという信仰があった」という説もありますから、もともとそうなのか、よくわかりません。

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 密教の場合、長年厳しい修行を積んで自己統御や自己放棄をマスターし、「法力」を獲得した「達人」が、大がかりな儀式によって神霊交渉を行なうのですから、一般人が見てもそりゃすごい効力があるだろう、と思う。実際に効力もあるでしょう。
 ただ、儀式には、司式者がそれほどの素晴らしい人格力や法力や霊能力を持っていなくても、成功するということがあるらしい。
 実際のところ、あまり神霊交渉体験もなく、ちょっと叡智にも欠けるような感じの神主さんが、祈祷をやると結構成果があったり、どうも「このお坊さんは、参禅体験はあるのだろうけど、神仏を深く信じているのだろうかしら」と思えるような僧侶が、加持祈祷では結構な験を見せて人気を博していたり、ということがあります。
 宗派自体に助力している神霊集団があって、そういう方々は多少司式者に問題があっても、あまり気にせず奉仕してくださるということでしょうか。

 だとしたら、当人に霊能力や念の力がなくても、必死に、真摯に儀式を行なえば、そこに神仏の加護はやってくるのかもしれません。
 実は私は神道の儀式次第は一応教わっています。けれども毎日やっていたわけではないので、やれるにはやれても、間違いそうになったり、ぎくしゃくしたりで、ちょっとこれでは様にならないなあという感じです。しかし、私のように霊能もなく人格力も低劣な人間でも、本当に真剣に、我を捨てて司式すれば、形だけの空疎なものには終わらないだろうなという確信(というか感覚)はありました。いや、実際、ちょっとした不思議なことは起こったりするわけです。
 長年やっているプロの司式は、美しいし、また当人が余計な念なく、所作に徹している様が伝わってくるので、「ああ、こういうふうに、“俺がやったる”みたいな思いもなしに、むしろ己を空にして行なう方が、神仏の加護はあるのかもなあ」と思わされます。
 逆に、知的に考える癖の強い人は、儀式をやっている時も、いろいろ考えたりするので、ぎくしゃくしたりする。すこーんとそういうものを取っ払ったら、よい儀式ができるのかもしれません。
 だったら儀式司祭者には、求めるべくは習熟・自己消去であって、知や人格や霊能力ではない、ということになるのかどうか。両方あることが望ましいでしょうけれども、どうもそのあたりにはジレンマがあるような……

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 スピリチュアリズムの霊信では、「儀式は不要」とにべもなく言われることが多いようです。言葉を無闇に繰り返したり、生け贄や饗応品を差し上げたりして、高級霊(神仏)を動かそうとするのは無意味な考えだ、ということです。心底願えば、助力は必ずある。問題はその願いの純粋さであって、外形的な仕草や物品は問題にならない。
 それは真実でしょうけれども、どうしても人間は、形としてあるものを欲してしまう。祈るめどとして、ちょっとした十字架や御札や御像があると心がまとまりやすい。結界の御札や清めの塩があればやはり安心度も増す。聖なる言葉を唱えていれば、心が清まり聖なるものを思いやすくなる。物理的なものを崇拝するのは愚かだとしても、心の支えとしては、そういうものがあってもいいのではないか。そう思うのは人情でしょう。
 高級霊たちだって、時折集まって神に祈りを捧げる儀式をしているではないでしょうか。ダスカロスのような聖人だって、刀を操って儀式をしているじゃないですか。
 人間の心はふらふらしがちです。それをそっと支えるのなら、外形的なものもことさらに排除する必要はないのではないでしょうか。本末転倒さえしなければ。

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 時に儀式は美しく、感動的です。
 お坊さんがいい声で、特に何人もが唱和して、鳴り物(何というのでしたっけ)をまじえて、お経を上げているのを聞いていると、やはり不思議な心地よさがあります。知り合いの臨済宗のお坊さんも、お経の声は素晴らしいし、太鼓を叩くのもうまいし、さすがだなと思います。
 声明なんかもいいですね。この前、ユーチューブで探してみたら、なかなか感動するものもありました。「ううむ、こういうものをいいと思うようになったのは年を取った証拠かな」という変な感慨もありましたが(笑い)。(そういえば、高野山なんたらというので、和声を用いた声明もあるのですね。あれは最近の創作でしょうか。)
 「ご詠歌」もありますね。曹洞宗のある学者先生が、「曹洞宗の信者のお婆ちゃんたちは、ご詠歌を聞いてありがたいありがたいと涙を流す、それが曹洞宗を支えているんですよ、道元の教学でも、ましてや空の論理でもない」とおっしゃったことがあります。そういう神聖な感動を与えてくれるなら、儀式もまたよいものでしょう。
 私自身は、30年も前の話ですが、パリのサントゥスターシュ教会のミサで、評判高い賛美歌合唱を聴いた時は、全身震えました。ああ、このまま信者になろうかな、とも思ったけど、その後の神父の説教の口調を聞いて、完全に興ざめしました(笑い)。
 ただ、こういう美に批判的な意見もあって、フランスのキリスト教作家モーリヤックは、「教会儀礼の感覚的甘美さは、信仰としては邪道だ」みたいなことを言っていました。
 しかし古来から神ごとには歌舞音曲はつきものなわけで、そこには何か秘密がありそうです。

 信仰というのは理詰めの問題ではないので、儀式一つを取っても、深いものがあります。簡単に結論を出すわけにはいかないようです。

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 前回書いたシンクロの話なのですが、この記事を書いた後、眠って目が覚めたら、こういうお告げがあったわけです。
 《儀式における集中と高揚は、外向タイプにとっての最高の宗教体験である。内向タイプは別の仕方でそれを得ている。》
 で、その後にユングの本がやってきたのです。

 改めて考えると、儀式の最も純化されたものが密教にある。また、内的体験の純化されたものも(ほかの部門にもあるけれども)やはり密教にある(禅は内的体験の粋でしょうが儀式は原理的には持たない)。
 ううむ……、やはり仏教は密教か禅に、つまり「達人宗教」に戻るべきなのではないか……
 なんて余計なお世話でした(笑い)。
 しかし、行き詰まりを感じている真剣なキリスト教徒の一部が、必死になって禅を学んでいるということもあります。仏教者はそれをご満悦で眺めているようですけれども、あんたらも人ごとじゃないんじゃない?と悪たれ口の一言もいいたくなったりして……
 ただ、密教を賞揚することは、スピリチュアリズムからはペケが出そう。うむむ(笑い)。


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