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達人たちの仏教 ①密教はわからない

2011-08-04 00:03:30 | 高森光季>仏教論3・達人たちの仏教

 「達人宗教」という概念があります。もとはウェーバーでしょうか。
 達人だけが関与できるもの。対立語は「大衆宗教」です。

 お釈迦さんの宗教(求道)、そして初期仏教も、達人宗教です。悟りを求めたい人だけが、生業・家を捨てて専心修行をする。奇妙なことに、当時のインド(一部では今も?)は、そういった「求道者」を一般人が支援するという文化があったようです。精神性が高いというのか、民度が高いというのか。何せ1000人を越える「無為の人間」に最低限の食と住が確保されたのですから、大したものです。
 達人宗教は別に仏教だけではありません。古代ユダヤ教のエッセネ派(クムラン教団)とか、古代ギリシャのオルフェウス教、ギリシャ正教のアトス山修道院なども、達人宗教に入れられるでしょう。近くは、スピリチュアリズムの「双子」とも言われる神智学が、達人宗教を標榜しました。
 仏教は大乗仏教運動によって、一部は大衆宗教に変わっていったわけですが、そこでも達人宗教の部分はしっかり残った。その代表が、密教と禅でしょう。

 達人宗教というものは、達人しかわかりません。その道に入り、何十年も修行した人だけがたどり着けるものです。
 「何をやってるんですか」
 「いやあ、やってみてもらわないとわかりません」
 「そうですか」
 という話です(笑い)。

 だから、密教や禅そのものについては論じられない。歴史的な事実や文書に関しては、いろいろと論じることもできるだろうけれども、本質は素人にはわからない。それはそれでいいわけで、いやたぶんそれでなければ困るわけで、余人が「けしからん」などと言う話ではない。
 ただ、達人たちも、ごく一部の完全孤立者を除いては、社会と関わっているわけです。新たな人材のリクルートもしなければいけない。そうなると、「まあ、こういうことですわ」とかいう説明もしなければいけない。核心部は明かされないけれども、周辺的なことは表明されざるを得ないわけです。また、交換――「こういうことができますよ」「じゃあお願いします。代わりにお米あげます」といったやりとり――も生じざるを得ない。

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 このうち密教というのは(読者にプロがいるから書きにくいw)、「加持祈祷」という形で一般民に利益をもたらしてくれているので、ある意味わかりやすいものでしょう。こうした加持祈祷の密教は、は古くから「雑密」という形で日本に入ってきたようですし、いわゆる「顕密体制」として、古代から中世まで、仏教の基盤をなしてきたものです。鎌倉新仏教と言われて念仏・法華・禅などが活発に活動したように思われる時代でも、天台(台密)・真言(東密)は、しっかりと民衆のニーズに応えて加持祈祷をやって顕密体制を作り上げていた。
 ただ、加持祈祷の仕組みがどうなっているのかは、達人以外にはわからない。私は以前、日本の民俗信仰の研究にちょっと首を突っ込んだことがあって、その関連で『阿娑縛抄』『覚禅鈔』などを覗いたことがあります。それを見ると、道場に結界を造り、壇を設けてそこに諸天諸菩薩を勧請し、印契を結んでマントラを唱え、その勧請した天ないし菩薩と自らが合一する、というのが基本作法のようでした。この結界・勧請の方法は、神道もほぼ同じです(パクったという面もあるかもしれませんが、霊的存在を降臨させる人類普遍の作法のようにも思えます。またパクったというなら、密教もヒンドゥー土着宗教からパクったということになるでしょう)。
 何をやると霊的存在を降ろし、合一することが可能になるのかはわからないわけですが、ともあれ、そうやって霊的存在と一体化し、その力によって何か超常的な作業を行なう、というのが、少なくとも私の見た中世密教の一番基本形だった(あくまで外形)ように思えます。
 もちろん密教も仏教ですから、悟りを求める=輪廻の超脱=自己救済という基本があるのでしょうけれども、こういう利他の役割が非常に強くある。これは一般人にとっては実にありがたいことで、時代を問わず人々は、悪霊除祓や病気治療、さらには雨乞い、豊穣祈願まで、あれこれを頼んでは謝礼を払ってその活動を支えていたわけです。
 (私も知り合いが癌になった時、新宿区の密教寺院で祈祷を依頼したのに付き合ったことがあります。)
 (ところで、密教には請雨法など、自然に働きかける呪術があります。自然霊との交渉というのは、神道も得意とするところで、こういったものは一神教にはない。大宗教としては仏教と(たぶん)ヒンドゥー教だけが持っている技法ではないかと思います。神道も含めて、アジアの優れた特色なのではないでしょうか。)

 ところが、今来さんもおっしゃっていたように、近代になると、唯物論に日和って、「加持祈祷」なんてのは迷信だ、邪教だみたいな考え方をする仏教者も出るようになった(諸仏諸天諸菩薩の“実在”を認めなくなったということでしょうか)。しかし、加持祈祷を排除したら、密教は密教ではなくなるのではないでしょうか。まあ、達人がたの話ですから素人が口を挟む余地はありませんけれども、一般人としたら、やはり密教は加持祈祷してわれわれを救ってほしいと(わがままながら)思います(笑い)。

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 外側から密教というものをイメージする際に、私が一番近いのではないかなと思うのは、本山博先生とギリシャのダスカロス師(マルキデス『メッセンジャー』など)です。
 この方たちは、自ら脱魂して、高次の霊界へ行く。そしてそこで高次の霊的存在と交渉したり、神秘的な智や力を帯びて現世に戻り(というか常に行き来している?)、人々を導き、利したりする。その方法は教えであったり、病気治療であったり、天候操作であったり(本山先生はカリフォルニアの山火事を止めたそうです)、いろいろです。唯物論の枠なんか、平気の平左で超えてしまう。
 先ほど触れた中世の密教修法は霊的存在を降臨させ合一するということで、どちらかというと「憑霊型」の感じがありましたが(実際はわかりません)、この人たちは、明らかに脱魂型です。別のところで書いた言葉を使えば、「高次体験型宗教」の精髄です。
 この人たちの行状を見ると、本当に「達人」そのものという感じがします。どちらも前世の記憶を持っていますし、しかも前世でも相当高い指導的な立場にいた。法然さんが「三度この国に生まれて民衆を教えた」と言ったそうですが、この二人も同じでしょう。行基菩薩や弘法大師もこういう超達人だったのかもしれません。もちろん大元のお釈迦さんも。そしてイエスさんも。
 とにかく、もし年がら年中高次霊界に行っている、あるいは日常の意識自体が現界と霊界の多重構造になっているとしたら、これはとんでもないことです。そうなったら悟りとか救いとかなんて、ぶっとんでしまうのではないでしょうか。
 密教が厳しい修行を通して目指しているのは、こういうことかな、と。現世でそういった理想を体現する人もいれば、何世か後にそうなろうとしている人もいる。だとすれば、すごいことです。
 私のような怠け者は、決してそういう人間にはなれないのか、それともあと1000年くらい生まれ変わりを続けて努力するとそうなるのか、そのあたりはよくわかりません(笑い)。

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 ちなみに付け加えておけば、スピリチュアリズムは、それ自体は「大衆宗教」です。達人のみが関与するといったものではありません。そこには「何かしないとわからない」とか「秘密の知識」などといったものはありません。誰にでも受け取り可能な情報・メッセージの集積です。
 ただ、スピリチュアリズムが成立した裏には、特殊な使命を帯びた霊的存在(霊団)と、それに奉仕する秀逸な霊媒という、一種の「達人」がいたことは確かです。このあたりは超えられないパラドックスなのでしょうか。
 やはり達人の存在というのは、貴重なもののようです。


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