スピリチュアリズム・ブログ

東京スピリチュアリズム・ラボラトリー会員によるブログ

【スピリチュアリズムの12の救い】(1)死はない

2010-12-17 00:12:02 | 高森光季>スピリチュアリズムの12の救い

 スピリチュアリズムが明らかにしたことはたくさんありますが、そのエッセンスとして、スピリチュアリズムは何を訴えたいのか、どういう「救い」をもたらしてくれるのかを、簡潔な形でまとめてみたいと思います。
 (以前にも「12の救い」という形でサイトに載せましたが、舌足らずの記事だったので、改めて。)

 ①死はない
 ②愛する人とは死後も会うことができる
 ③おおかたの人は死後に「楽園」に行く
 ④地獄や永遠の罰はない
 ⑤生まれ変わることができる
 ⑥魂は孤独ではない
 ⑦魂の経験は失われることがない
 ⑧一人一人に見守ってくれる「霊的存在」がいる
 ⑨退歩はない
 ⑩不公正はない
 ⑪何も恐れるものはない
 ⑫宗教は必要ない


      *      *      *

①死はない

 私たちが何よりもまず言わなければならないことは、
 「私たちは死によって消滅することはない」
ということです。私たちの人格の主要な部分は、死の後も残り、生き続けます。
 スピリチュアリズムがたくさんの人々の努力によって明らかにしようとしたことは、この一点です。

 「ばかな」と思う人が多数でしょう。私たちは科学万能の時代に生きています。科学は、「すべての現象は、物質に起因する」と主張します。私たちの人格は、脳が作り出す電気信号の集まり。肉体が死ねば、私たちは消滅し、後に何も残るわけがない。それが科学を極端に進めた「唯物論」の見解です。
 科学は私たちに大きな恩恵をもたらしたために、私たちはそれを崇拝しています。科学(現行の科学)に反するものは、かつての「異端」「異教徒」のように、厳しい白眼視に遭います。

 しかし、人間の知性は絶対ではありません。科学はすべてを解明したわけではありません。私たち人間は、絶対的な真実を掴んだわけではないのです。
 さらに言えば、科学はもともと「現行の知識ではわからない現象を探究する」ことが目的でした。「現行の知識」を絶対視し、「それで説明できない現象は存在しない」とすることは、科学自体の自殺行為です。「存在するのは物質だけである」という断定は、科学ではありません。

      *      *      *

 1848年に始まる近代スピリチュアリズムの運動は、「死は終わりではない」ことを示す現象の多発と、それを確かなものにしようとする人々の努力によって、進められました。
 たくさんの「霊との媒介者」が登場し、たくさんの多彩な現象が観察・記録されました。
 たとえば、この世を去った人が、霊媒を通して、その人独自の語り口で、生前の出来事について遺族に語りかける、という現象があります。あるいは「自動書記」によって文字を通して通信する場合もあります。
 また、この世を去ったと称する人格が霊媒を通して出現し、様々な奇跡的現象を起こして見せ、時には自らの姿を出現させる、といったこともありました。
 さらには、広く調べてみると、危篤状態にある人が離れた場所にいる肉親に姿を現わしたり、死直後の人が肉親に姿を現わすということを非常に多くの人が体験していることもわかりました。
 一部の人々はこれらによって、「死は終わりでない」ことを認めましたが、多くの人は、そして社会の権威は、それを否定し続けました。

 スピリチュアリズムの運動は、20世紀に入ると、二つの大きな世界大戦によって、下火になっていきました。第二次大戦後は、1970年以降、臨死体験研究、生まれ変わり研究、前世療法などが、「死後」の問題を細々とながら探究しています。また、神秘主義や宗教によって、証拠の有無に関係なく、霊魂を認める人々もいます。
 けれども、現代社会は、唯物論に近い態度をますます取るようになってきています。

 スピリチュアリストは、これまでに蓄積された証拠を理性的に検討することで、「人は死後も生きる」ことは確かなことだと考えています。全員を納得させるような明々白々な証明がないことは認めますが、唯物論からの反駁に再反駁できる強力な事例も、かなり存在すると考えています。(たとえば、TSLホームページの「(3)超ESP説は棄却された――スティーヴンソンの「真性異言」および「先天性刻印」」の研究をめぐって」を参照。)

 けれども、前に述べたように、人間の知性は絶対ではなく、われわれは「絶対的真理」を手にすることはできません。ですから、「死後も魂は存続する」ということを、絶対の真理だと主張することはあきらめなければなりません。
 ですから、フィフティ・フィフティで仕方ありません。われわれは絶対を主張しない。そして反対する側も絶対を主張しないでもらいたい。どちらを取ることも可能、という状態にしてもらいたい。それがスピリチュアリストとしての最低限の願いです。

 そうした前提を踏まえて、スピリチュアリストとして私たちは、次のように訴えたいのです。
 「人間の魂は死後も存続するということを示す証拠はたくさんあります」
 「私たちは理性的に検討して、それを受け入れました」
 「場合によっては受け入れてもいいと思っている人たちには、できるだけ証拠を示したい。そして理性的に検討して判断してもらいたいと願っています」

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 「私は死の後も生き続ける」
 ――この単純な命題が、もし真理として受け入れられるのであれば、すべての考え方が、哲学・世界観・道徳が、大きく変わるでしょう。

 何よりも、それはそれは大きな救いとなるはずです。「私が死後も生き続ける」のであれば、死をむやみに恐れる必要はなくなります。多くの人は、死によって「私」が消滅してしまうという恐怖を持っていますが、その必要はないのです。
 死の恐怖は、人間にとって最大の恐怖だと言われています。それが消え去るのであれば、それは大きな救いではないでしょうか。

 「では、死の後はどうなるのだ?」という問いが当然すぐに出てくるでしょう。
 これに関して、スピリチュアリズムは(スピリチュアリズムの中で得られた「死者からのメッセージ」では)、厳密な解答をしていません。おおまかに言うと、
 「大半の人は、この世によく似た、この世よりも素晴らしい世界に行きます。そして、その後、大方の人は、この世に生まれ変わります」
 ということになります。
 魂は、死を超えて、永遠の成長の道を歩みます。しかし、その道は実に様々なので、固定的に述べることはできない。固定的に語ると、逆に弊害を招くことになりかねない。そういう配慮があるようです。
 死後、魂がどのような道を歩むか、それはスピリチュアリズムの蓄積を学んでいくと、次第におおまかな理解ができるようになります。それについてはまた後で触れることになるでしょう。

 一つ、すぐに付け加えておかなくてはならないことがあります。「死はない」からといって、自殺することは、「ほかの人を救うため」といった特殊な場合を除いて、非常にまずい結果となることは付け加えておかなければなりません。自殺は苦しみの解決にはなりません。ネガティブな思いにとらわれて自殺した魂は、その暗澹とした思いの中で長いこと苦しむと言われています。

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 この世界は素粒子の集まりに過ぎないとか、すべての存在には実体はないといった世界観を主張する人は多いですが、繰り返し言えば、それは絶対的な真理ではなく、仮説に過ぎません。
 そして、それらの仮説は、非常に重要なものを見落としています。それは、生命の不可思議であり、その生命活動の集約点となる私たちの人格そのものです。
 「世界は空だ」という見方はある意味で正しいものです。現前する事物は、常に移ろっていくものであり、無限に細部のものに分解できるからです。しかしそれは、肝心な領域を落としています。すなわち、私たちの生命活動の主体――想像し、思考し、意志する「私」を見ていないのです。私の生命活動の根幹は、一貫して存在を続け、他の要素に分解できません。
 「私たちというものは存在しない。あるのは物質だけだ」と唯物論者は主張しますが、実はまったく逆のことが正しいのかもしれません。「世界は実体として存在しない。あるのはただ私たちの魂だけだ」と。
 スピリチュアリズムの「霊のメッセージ」は言います。この世界は、一つではなく様々なレベルのものがあり、それらは、「霊魂が自らを表現するための場」であると。主体は私たちの魂であり、物質世界はその下僕に過ぎないのだと。
 「自分たちをそのような優れた存在だとするのは傲慢だ」と言う人がいるかもしれません。しかし、私たちの魂は、低劣で矮小なものであるにしても、「大いなる存在」の一部分です。大いなる存在が宇宙を(たくさんの宇宙を)創造し、今も創造し続けているのと同様に、私たちの魂も、創造の営みをなしているのです。「われわれはみな神の子」「われわれは大神霊の分霊(わけみたま)」という宗教の言葉は、正しいのです。

 もちろん、「そんなことは妄想である。われわれはたまたま発生したヒトという生物の、脳の中の電気信号に過ぎない」ということを信じることは自由です。それが真実でないと言うことはできません。未来にそれが証明される可能性もないとは言えません。
 けれども、そうやって自分の心や魂を否定することで、本当によいのでしょうか。私たちの存在は、つむじ風や泥の中から湧くメタンガスと同じようなものなのでしょうか。
 「神や聖人を否定することは許される。しかし霊を否定することは許されない」という主旨の言葉が聖書にあります。それは、宗教などを否定することは一向に構わないが、自らが「大いなる存在の一部」であることを否定することは忌むべき行為だ、ということを言っているのではないでしょうか。
 物質だけが実在で価値あるものでしょうか。それとも自分の魂が実在で価値あるものでしょうか。どちらを選ぶことも自由。どちらを取りますか。

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 私たちの本質は「魂」であり、それは肉体の死後も存続する。
 このことは狂気の妄想ではありません。むしろ唯物論が広まる前は、世界の多くの人が当然なことと信じていたことです。そして、それが妄想ではないということを示す「状況証拠」はたくさんあるのです。
 それを受け入れることで、損をすることは特に何もないでしょう。逆にそれを受け入れることで、大きな救いが得られます。その第一が「死への恐怖がなくなる」という救いです。

 《物質界は生活の一側面にすぎません。あなたの生活のすべてではないのです。死ぬということは物的身体による認識をやめて霊的身体によって魂の別の側面を表現しはじめるということに過ぎません。》(シルバー・バーチの霊訓1 74頁)
 《私どもはぜひとも無知を取り除きたいのです。死とは第二の誕生であること、生の自然な過程の一つであること、人類の進化における不可欠の自然現象として神が用意したものであることを理解していただきたいのです。》(シルバー・バーチの霊訓3 45頁)


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3 コメント

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簡単なんですよ (JIJIRO)
2010-12-19 18:27:21
高森様
KINDLE を日本語で利用するのはとても簡単なことなんです。
(還暦を過ぎた私にもできたんですから(^^))
http://a2k.aill.org/text.html
ここにテキストを入れてボタンを押すだけで、本当に読みやすい(縦書きの)KINDLE 用の文章ができてしまいます。

この青空キンドルをお作りになって提供して下さっている方に対しては、私は文化勲章を差し上げてもよいくらいに感謝しております。
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JIJIRO様へ (高森光季)
2010-12-19 17:14:43
ご声援ありがとうございます。
とても嬉しく、励みになります。
こういう営みは、太平洋に小石を投げ込んでいるような気分にいつもなりがちですから(笑い)。

電子ブックのことも気になっているのですが、どうもジジイ化してきて、フォーマットのことなど、よくわかりません。勉強します。
返信する
ありがとうございます (JIJIRO)
2010-12-19 08:35:30
高森様始めこのブログに執筆をなさってらっしゃる皆様、いつも素晴らしい記事をありがとうございます。
また、先日はあの「マイヤーズ通信」を無償でアップしていただきまして、感謝の気持ちで一杯です。さっそく KINDLE に流し込んで、折りに触れて読ませていただいております。今にして思うと、KINDLE は「心の道場」様と「東京スピリチュアル・ラボラトリー」様の記事をいつも私の身近に置いておいて、スピリチュアリズムを実践していくのに欠かせない、最重要のツールになってしまった感があります。(もちろん私はアマゾンの回し者ではありませんです^^;))

で、当然「12の救い」も KINDLE には入っており、何度も読ませてもらってますが、今回の改訂もとても楽しみです。
とりあえずはお礼の言葉をお伝えしたかったので書き込みさせていただきました。
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