イエスの言行の話に入る前に、やっぱりざっと時代背景みたいなものを押さえておかなければならない。といっても細かい話は面倒なので、ごくごく大雑把なことだけを。
イエスは紀元前4年頃生まれ、紀元30年頃に刑死したというのが現在の定説である。
この頃、あのあたりは、地中海全沿岸から中東のイランくらいまで拡がる、「ヘレニズム文化」に包まれていた。アレクサンドルの大帝国によってギリシャ文化が拡がり、その後を、ローマ帝国がカバーする、という感じである。
一種、不思議な時代だったとも言える。「ガラガラポン」というか、それまでの古代文明の国家(エジプト、ギリシャ、アッシリア、ペルシャなどなど)が衰退し、人種や文化がぐちゃぐちゃに入り交じり合う「ボーダーレス」状況が生まれていたわけである。ちょっと20世紀後半の世界と似ていなくもない。
文明の転換期、既存秩序の崩壊期、異文化の衝突・融合と新文化の誕生期……美しく表現するとそういうことになろうか。
で、ユダヤ国家も、その中でぐちゃぐちゃになっていた。ユダヤ国家の歴史自体、何度も滅亡・再生を繰り返すぐちゃぐちゃな歴史だが、この時期も、パレスチナ地方全体は、ローマ帝国の支配下にあった。といってもローマが直接統治するのではなく、傀儡政権のヘロデ王朝を立てていたから話はややこしい。しかも、もともとの国は分裂し、聖都エルサレムのあるユダヤは正統的なユダヤ国家を自任していたが、隣のサマリア地方は「邪教民」扱いだったし、イエスの生まれたガリラヤ地方は、ど田舎で外国人も多い、お荷物的存在と見なされていた。
古代ユダヤ国家の歴史はこれまた波瀾万丈で面倒くさい。ただ、面白いのはその成立である。
どうも、ユダヤ民族というものが古くからあったというのではなく、エジプトに占領され、拉致されて奴隷となっていたパレスチナ出身の人々が、モーセという人物のもとに結集し、エジプトを脱出してあの地に移住した、というのが実状らしい。あの地はもともと彼らが住んでいた土地ではなく、良い土地だからというので侵略し、そこにいた住民を女子供も含めて完全抹殺して居座ったのである(これは旧約聖書ヨシュア記にきちんとそう書いてある)。
このことは、20世紀のユダヤ人国家成立とからめて考えても面白いが、ユダヤ教・キリスト教問題を考える意味でも欠かせない視点である。
第一には、この「奴隷たちの結集」のための強力な絆として、ユダヤ教が成立したということ。ユダヤ国家の構成員は、血族集団ではなく、モーセが作り上げた「宗教」(「自然宗教」ではなく「創唱宗教」)によって結ばれた人々だということである。つまり「イスラエル人」=「ユダヤ教徒」であって、国家と宗教は不可分なのである。こうしたあり方は人類史的にかなり珍しいだろう。
第二には、モーセがいた頃のエジプトは、ちょうど「アマルナ時代」、あのイクン・アテンによる宗教革命が起こっていた時期であるということ。これも非常に示唆深い。もともとエジプトの宗教は、非常に歴史が古く、高度に発達し、奥深いものだった。来世への信仰が強い、汎神論に近い多神教であり、また様々な神秘主義も含み込んでいた。一時、西洋人はエジプトの宗教を「猫や鳥を神にするゲテモノ」と見たが、これは偏見である。これに対して、イクン・アテンは、アテン神を唯一神とする新しい宗教を打ち立てようとし、一時的には成功したが、すぐに挫折した。イクン・アテンとモーセがどのように関わったのかはわからない。どちらが「一神教」の創唱者なのかもわからない。ただ、「一神教」という、人類史的に良くも悪くも大きなインパクトを持った宗教が、「エジプト宗教への反逆」として生まれたことは、まず間違いない。悪し様に言うと、一神教ははねっ返りの王と、差別に苦しんだ奴隷たちの発明、ということになる。もちろん一神教信者は、「この時初めて唯一の神が人間に語りかけた」というだろうが。
* * *
ユダヤ教とは何かというのは、これまた大変な問題で、とても手に負えない。
イエスはユダヤ教徒だったわけだから、本当にイエスを理解するにはユダヤ教をきちんと勉強しなくてはならない。まあ、これは正論と言えば正論だけれども、そこからやっているとたぶんイエスにたどり着かないうちに死んでしまうだろう。
それに、たとえば親鸞を理解するのに、全仏教史をきちんと勉強しなければならないだろうか。イエスだって親鸞だって、ユダヤ教、仏教を全部きちんと勉強したわけではあるまい。
もちろん、イエスはユダヤ教のどういうものを継承し、どういうものを否定ないしは改革しようとしたのか、というのは重大な問題である。ただ、幸いなことに、そういう作業をやってくださっている学者さんたちはたくさんいるので、そこから学べばよろしい。まあそういう立場もありだろう。
乱暴を承知で、ユダヤ教の基本構造を言えば、次のようなことが言える。
・ユダヤの民は「唯一の神」と契約した選ばれた民である。ただし、この契約は血統によって自動的に保証されるものではなく、常に信仰と行動が求められる。
(なお、ここでいう「唯一」は、もともとは、「それだけが正真正銘の神」というニュアンスであって、ほかにも神がいるということを否定するものではなかったように思われる。彼らはエジプトの神々やアッシリアの神々や諸部族の神がいることを実体験として承知していた。たぶん、「それはそれで知ったことか、俺たちのが本物だぜ」くらいの感じだったはずである。後のキリスト教のように、他の神は一切存在を認めないというような狭量はなかっただろう。そういうある種寛容な態度はイエスにも見られる。)
・神は何度も「預言者」を送り、堕落しがちなユダヤ民族に警告を発し、正しい教えを伝えようとする。預言者は神そのものや神の子ではなく、神の言葉を託された人間である。
・唯一の神の掟を守っていれば、神はやがて、イスラエルを世界を支配する国にしてくれる。つまり、神の選民であるユダヤ人は世界の支配者になる。(ここには、奴隷として苦しみ、また苦労して作った国を何度も近接する強国に滅ぼされ、支配され、蹂躙された民が、「一発逆転」を望む発想がある。)
・その時、神からの御使いである「メシア」(救世主、油を注がれた者、ギリシャ語で「キリスト」)がやってくる。天変地異や大戦争が起こり、神は自らを信じた人間とそうでない人間を審判する。神の契約を守った人々(≒イスラエル)は勝利し、世界に冠たる国になる。
・現世が問題であって、死後世界については無関心(来世主義であるエジプト宗教の反動と考えられなくもない)。
ずいぶん乱暴なまとめ方だが、ユダヤ教というものが、人類史上きわめて特異な宗教であり、非常に変わった考え方をするものだということがおわかりいただけるのではないだろうか。日本人の目から見れば、またスピリチュアリストの目から見ても、ユダヤ教はきわめて現世的・政治的宗教なのである。特に「死後世界への無関心」は注目すべきところである。なぜイエスがキリストになったのか、という問題と深く関わるからである。
どうも面倒な話で申し訳ない。また粗雑なものなので、詳細は別にお調べいただきたい。
ただ、以上のことくらいを押さえておくことが、イエスの言動を理解するためには必要だろうなと思う次第である。
イエスは紀元前4年頃生まれ、紀元30年頃に刑死したというのが現在の定説である。
この頃、あのあたりは、地中海全沿岸から中東のイランくらいまで拡がる、「ヘレニズム文化」に包まれていた。アレクサンドルの大帝国によってギリシャ文化が拡がり、その後を、ローマ帝国がカバーする、という感じである。
一種、不思議な時代だったとも言える。「ガラガラポン」というか、それまでの古代文明の国家(エジプト、ギリシャ、アッシリア、ペルシャなどなど)が衰退し、人種や文化がぐちゃぐちゃに入り交じり合う「ボーダーレス」状況が生まれていたわけである。ちょっと20世紀後半の世界と似ていなくもない。
文明の転換期、既存秩序の崩壊期、異文化の衝突・融合と新文化の誕生期……美しく表現するとそういうことになろうか。
で、ユダヤ国家も、その中でぐちゃぐちゃになっていた。ユダヤ国家の歴史自体、何度も滅亡・再生を繰り返すぐちゃぐちゃな歴史だが、この時期も、パレスチナ地方全体は、ローマ帝国の支配下にあった。といってもローマが直接統治するのではなく、傀儡政権のヘロデ王朝を立てていたから話はややこしい。しかも、もともとの国は分裂し、聖都エルサレムのあるユダヤは正統的なユダヤ国家を自任していたが、隣のサマリア地方は「邪教民」扱いだったし、イエスの生まれたガリラヤ地方は、ど田舎で外国人も多い、お荷物的存在と見なされていた。
古代ユダヤ国家の歴史はこれまた波瀾万丈で面倒くさい。ただ、面白いのはその成立である。
どうも、ユダヤ民族というものが古くからあったというのではなく、エジプトに占領され、拉致されて奴隷となっていたパレスチナ出身の人々が、モーセという人物のもとに結集し、エジプトを脱出してあの地に移住した、というのが実状らしい。あの地はもともと彼らが住んでいた土地ではなく、良い土地だからというので侵略し、そこにいた住民を女子供も含めて完全抹殺して居座ったのである(これは旧約聖書ヨシュア記にきちんとそう書いてある)。
このことは、20世紀のユダヤ人国家成立とからめて考えても面白いが、ユダヤ教・キリスト教問題を考える意味でも欠かせない視点である。
第一には、この「奴隷たちの結集」のための強力な絆として、ユダヤ教が成立したということ。ユダヤ国家の構成員は、血族集団ではなく、モーセが作り上げた「宗教」(「自然宗教」ではなく「創唱宗教」)によって結ばれた人々だということである。つまり「イスラエル人」=「ユダヤ教徒」であって、国家と宗教は不可分なのである。こうしたあり方は人類史的にかなり珍しいだろう。
第二には、モーセがいた頃のエジプトは、ちょうど「アマルナ時代」、あのイクン・アテンによる宗教革命が起こっていた時期であるということ。これも非常に示唆深い。もともとエジプトの宗教は、非常に歴史が古く、高度に発達し、奥深いものだった。来世への信仰が強い、汎神論に近い多神教であり、また様々な神秘主義も含み込んでいた。一時、西洋人はエジプトの宗教を「猫や鳥を神にするゲテモノ」と見たが、これは偏見である。これに対して、イクン・アテンは、アテン神を唯一神とする新しい宗教を打ち立てようとし、一時的には成功したが、すぐに挫折した。イクン・アテンとモーセがどのように関わったのかはわからない。どちらが「一神教」の創唱者なのかもわからない。ただ、「一神教」という、人類史的に良くも悪くも大きなインパクトを持った宗教が、「エジプト宗教への反逆」として生まれたことは、まず間違いない。悪し様に言うと、一神教ははねっ返りの王と、差別に苦しんだ奴隷たちの発明、ということになる。もちろん一神教信者は、「この時初めて唯一の神が人間に語りかけた」というだろうが。
* * *
ユダヤ教とは何かというのは、これまた大変な問題で、とても手に負えない。
イエスはユダヤ教徒だったわけだから、本当にイエスを理解するにはユダヤ教をきちんと勉強しなくてはならない。まあ、これは正論と言えば正論だけれども、そこからやっているとたぶんイエスにたどり着かないうちに死んでしまうだろう。
それに、たとえば親鸞を理解するのに、全仏教史をきちんと勉強しなければならないだろうか。イエスだって親鸞だって、ユダヤ教、仏教を全部きちんと勉強したわけではあるまい。
もちろん、イエスはユダヤ教のどういうものを継承し、どういうものを否定ないしは改革しようとしたのか、というのは重大な問題である。ただ、幸いなことに、そういう作業をやってくださっている学者さんたちはたくさんいるので、そこから学べばよろしい。まあそういう立場もありだろう。
乱暴を承知で、ユダヤ教の基本構造を言えば、次のようなことが言える。
・ユダヤの民は「唯一の神」と契約した選ばれた民である。ただし、この契約は血統によって自動的に保証されるものではなく、常に信仰と行動が求められる。
(なお、ここでいう「唯一」は、もともとは、「それだけが正真正銘の神」というニュアンスであって、ほかにも神がいるということを否定するものではなかったように思われる。彼らはエジプトの神々やアッシリアの神々や諸部族の神がいることを実体験として承知していた。たぶん、「それはそれで知ったことか、俺たちのが本物だぜ」くらいの感じだったはずである。後のキリスト教のように、他の神は一切存在を認めないというような狭量はなかっただろう。そういうある種寛容な態度はイエスにも見られる。)
・神は何度も「預言者」を送り、堕落しがちなユダヤ民族に警告を発し、正しい教えを伝えようとする。預言者は神そのものや神の子ではなく、神の言葉を託された人間である。
・唯一の神の掟を守っていれば、神はやがて、イスラエルを世界を支配する国にしてくれる。つまり、神の選民であるユダヤ人は世界の支配者になる。(ここには、奴隷として苦しみ、また苦労して作った国を何度も近接する強国に滅ぼされ、支配され、蹂躙された民が、「一発逆転」を望む発想がある。)
・その時、神からの御使いである「メシア」(救世主、油を注がれた者、ギリシャ語で「キリスト」)がやってくる。天変地異や大戦争が起こり、神は自らを信じた人間とそうでない人間を審判する。神の契約を守った人々(≒イスラエル)は勝利し、世界に冠たる国になる。
・現世が問題であって、死後世界については無関心(来世主義であるエジプト宗教の反動と考えられなくもない)。
ずいぶん乱暴なまとめ方だが、ユダヤ教というものが、人類史上きわめて特異な宗教であり、非常に変わった考え方をするものだということがおわかりいただけるのではないだろうか。日本人の目から見れば、またスピリチュアリストの目から見ても、ユダヤ教はきわめて現世的・政治的宗教なのである。特に「死後世界への無関心」は注目すべきところである。なぜイエスがキリストになったのか、という問題と深く関わるからである。
どうも面倒な話で申し訳ない。また粗雑なものなので、詳細は別にお調べいただきたい。
ただ、以上のことくらいを押さえておくことが、イエスの言動を理解するためには必要だろうなと思う次第である。
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