スピリチュアリズム・ブログ

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【霊学的イエス論(8)】霊的治療者としてのイエス

2010-09-10 00:10:28 | 高森光季>イエス論・キリスト教論
 イエスの活動――福音書で一応人生の最期とされているエルサレムでの活動の前まではということなのだが――の最大のものは、「病気治し」(悪霊祓いや「死者の蘇り」も含む)であった。
 イエスは、まず何よりも「霊的治療家」として活動し、それによって人々に受け入れられたわけで、奇跡を大々的に見せたり、素晴らしい説教をして人々を魅了したから人気を博したのではない。奇跡は限定的なものだったし、説教は難解な譬え話や過激な「逆説」が多くて、簡単に理解できるようなものではなかった(後述)。

 イエスの病気治療についての共観福音書の記述は以下の通りである。

カファルナウム会堂での悪魔祓い(マルコ1:23-28、ルカ4:33-37)
シモンの姑の癒し       (マルコ1:29-31、マタイ8:14-15、ルカ4:38-39)
カファルナウムでの集団の癒し (マルコ1:32-34、マタイ8:16-17、ルカ4:40-41)
らい病者の癒し        (マルコ1:40-45、マタイ8:1-4、ルカ5:12-16)
中風の人の癒し        (マルコ2:1-12、マタイ9:1-8、ルカ5:27-28)
手の萎えた男の(安息日の)癒し(マルコ3:1-6、マタイ12:9-14、ルカ6:6-11)
安息日の腰の曲がった女の癒し (ルカ13:10-17)
安息日の水腫の癒し      (ルカ14:1-6)
海辺の群衆の癒し       (マルコ3:7-12、マタイ4:24-25;12:15-16、ルカ6:17-19;4:41)
百人隊長の下僕の癒し     (マタイ8:5-13、ルカ7:1-10)
やもめの息子の蘇生      (ルカ7:11-16)
ベルゼブル論争の契機の癒し  (マタイ9:32-34;12:22-30、ルカ11:14-23)
豚の群れに入る悪霊      (マルコ5:1-20、マタイ8:28-34、ルカ8:26-39)
死んだ少女の蘇生       (マルコ5:21-24,35-43、マタイ9:18-19,23-26、ルカ8:40-42,49-56)
慢性出血の女の癒し      (マルコ5:25-34、マタイ9:20-22、ルカ8:43-48)
二人の盲人と聾唖者の癒し   (マタイ9:27-34)
ゲネサレトでの集団の癒し   (マルコ6:53-56、マタイ14:34-36)
ギリシャ女の娘の癒し     (マルコ7:24-30、マタイ15:21-28)
聾唖者の癒し         (マルコ7:31-37、マタイ15:29-31)
弟子が失敗した少年の悪魔祓い (マルコ9:14-29、マタイ17:14-20a、ルカ9:37-43a)
サマリア人のらい病者10人の癒し(ルカ17:11-18)
エリコの盲人の癒し      (マルコ10:46-52、マタイ20:29-34;9:27-31、ルカ18:35-43)

 病気治しの中には悪霊除去もむろん含まれる。数多い治病譚の中から、奇妙なものを一つあげておこう。「豚の群れに入る悪霊」の話である。
 《イエスと弟子たちはゲラサ人たちの地方に入った。イエスが舟から出て来ると、汚れた霊に取りつかれた男が墓場から出てきたのに出会った。男は墓場を住みかとし、夜昼となく墓場や山の中で叫んだり、石で身を切りつけたりしていた。人々は彼を足かせや鎖で縛ろうとしたが、彼はものすごい力でそれらを壊してしまった。イエスは男を見ると、「汚れた霊よ、この人から出て行け!」と命じた。すると男は「いと高き神の子イエスよ、わたしはあなたと何のかかわりがあるのか。神にかけてお願いする、わたしを苦しめないでくれ」と大声で叫んで言った。
 「お前の名前は何という」とイエスは男に尋ねた。
 「わたしの名前はレギオン〔ローマの軍事組織「百人隊」のこと〕だ」と男は答え、さらに、「自分たちを追い出すのなら、あの豚たちの中に入れるようにしてくれ」と懇願した。その山腹には豚の大群が飼われていた。
 イエスがそれを許すと、汚れた霊たちは出て行って豚たちの中に入った。二千匹ほどのその群れは、険しい土手を下って海に突進し、海でおぼれ死んだ。飼っていた者たちは逃げて行き、その町とその地方でそのことを知らせた。
 人々は、何が起きたのか見に来た。そして事の次第を知ると、自分たちの地域から去るようにとイエスに懇願した。》(マルコ5:1-17、マタイ8:28-34、ルカ8:27-39)

 祓われた悪霊が動物に乗り移るというような事例は、スピリチュアリズムの中ではあまり聞いたことがないが、いわゆる民間伝承の類では、霊的存在が動物にも憑依する話がしばしばある。動物にもエーテル体があるのだから、まったく起こりえない話ではない。しかし気味が悪い話ではある(ちなみに映画「エクソシスト3」は原題は「レギオン」で、ものすごく恐ろしい映画でした)。

      *      *      *

 スピリチュアリズムおよび関連領域では、きわめて高い霊的能力を持った人によって、奇跡的な治療が起こることは、充分知られている。ハリー・エドワーズやダスカロスの事例では、実証的な証拠も存在する(ハリー・エドワーズ『霊的治療の解明』、マルキデス『メッセンジャー』参照)。
 その中には、悪霊(未浄化霊)の憑依を祓うこともあるし、また、純然たる肉体の病気を、エーテル体に働きかけることによって治すというものもある。腫瘍などはもちろん、骨の歪みや骨折すら治るのである。

 しかし、キリスト教の護教論者は「あれは神の子のみがなしうる歴史上一回きりの奇跡だ」と主張するし、近代的知識人たちは、そのような奇跡は存在しないと考える。
 たとえば田川建三先生は、次のように言う。
 《この種のいわゆるカリスマ的な宗教的奇跡行為者は強烈な精神の働きと「信仰」によって病気をいやすのだから、それによっていやされる、もしくは本人達がいやされたと信じこむ病気は、精神神経系統のものが多かったという事情があろう。》
 《福音書でとりあげられている病気には、伝染、流行病らしきものはほとんど見られない。むしろ日常のいわゆるストレスが原因で生じる病気が多い。たとえばイエスが「癩病」を癒したと言っても(マルコ1:40-45)、近代に言う癩病かどうかはわからない。あらゆる類の皮膚疾患が「癩病」として扱われていたのだから、この場合が何であったのかはわからない。湿疹、蕁麻疹の類など、精神的肉体的疲労がきっかけで生じることが多いので、この場合が湿疹だったとは言わないが、いずれにせよ、温和で、ほっとした安らぎに包みこんでくれるようなイエスの人格を前にし、その手で暖かく患部をさわってもららい、しかも畏怖をおぼえさせる権威を感じさせ、此の世ならぬ迫力を伴った威厳のある態度を声に出して、「癩病」に対して「清くなれ」などと命じてもらえば、直るものなら直っただろうし、直らなくても軽くなった気分は味わえただろう。まして、「悪霊につかれた」病気となればなおのことだ。》
 《ただし、近代人である我々がこれらの出来事を事実として十分に起こりうると考えるのと、当時の人間がこれを事実として信奉したのとでは、考えていることの内容が異なる。我々はこれを事実として当然ありうることだと考えるけれども、彼らはこれを、当り前なことではなく、普通には考えられない奇跡が実現したと考える。だからそこに宗教的熱狂が生れるのである。》

 要するに、イエスが治療した病気(の多く)は心因性のものであり、それを気合いや雰囲気などで治療したのであって、それは奇跡でも何でもない、それを近代人は知っているが、古代人は奇跡と取ったのである、ということである。しかし、イエスの治病をこの程度のものだと断定することはまず無理である。というよりも、広く宗教現象を見ていけば、宗教的治病者の治療行為は、精神因性のものを心理的な方法によって治療するというようなものではないことは明らかである。

 超常的な治病には、治療者の生体エネルギー(気)によって病気を治すものと、治療者は媒体に過ぎず、霊的存在が病気を治すものとがある。前者のものは、その時症状がなくなっても、また元に戻ってしまう場合がある。また、遠隔治療は不可能である。霊による治病はかなり劇的であり、治療者がそこにいなくても起こる。
 イエスの治病は、遠く離れたところにいる病人を治したとされている(「ギリシャ女の娘の癒し」「百人隊長の下僕の癒し」)。これを素直に受け取れば、明らかに霊的存在による治療であったと思われる。
 また、興味深いことに、いわゆる「弟子」たちも(実際何人であったかどうかはともかく)、一応はヒーリングができたようだ。ルカの独自記事だが、次のようなものがある(10:17-21)。
 《派遣された70人の弟子(ルカでは70人となっている)は、治療が成功したのを喜びながら戻ってきて、言った。「先生、先生のお名前を唱えることで、悪霊たちは見事に屈服しました」。イエスは言った。「俺にはサタンが天から墜落するのが見えた。いいか、お前たちには蛇やサソリを踏みつける力、敵を打ち払う権威を与えた。お前たちを害するものは何もない。ただ、悪霊がお前たちに屈服することを喜ぶのではなく、お前たちの名が天に書き記されたことを喜びなさい」。さらにイエスは霊感に満たされて言った。「ああ、父よ、あなたを賞め讃えます。あなたはこれらのことを智者や賢者から隠し、それを幼な子たちに明らかにされました。そうです、父よ、このようにして,あなたのご意志が実現したのです」。》
 一応、霊はイエスを媒介にして治療を行なうのだが、遠距離のターゲットにもその力は働いたし、弟子を通しても、可能だったのである(失敗も一例報告されているが)。ここからも、イエスのヒーリングがイエス個人の生体に由来するものではなく、霊的存在によるものだったことははっきりする。
 これは、非常に強力な霊の介入があったから可能になることである。
 イエスの第一の「霊的使命」は、病める人を助けることであった。そしてイエス自身も、自分の第一の仕事は病気治療だと自覚していた。
 《パリサイ派の人々近寄って来てイエスに言った。「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています」。イエスは言った。「行って、あの狐に、伝えなさい。『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、[三日目にすべてを終える]』とわたしが言ったと。[だが、]今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。[預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。]」》(ルカ13:31-33、[ ]は受難物語に結びつけた後からの付加と思われる箇所。こういうふうにイエスの言葉はどんどん歪められる。)
 つまり、「今日も明日もその次の日も、悪霊祓いをし、病気治療をするんだ、これが自分の進む道だ」と宣言しているのである。

 霊的治療といえども、媒介者が何も感じないわけではない。自分を通って霊の力が働いたことは感じる。「慢性出血の女の癒し」はその感覚を生々しく伝えていて面白い。
 《イエスが弟子や群衆を従えながら歩いていると、病気の女性が後を追ってきた。彼女は十二年間、「血の患い」に苦しみ、様々な医者をまわって全財産を使い果たしたが、誰も治すことができなかった。彼女は「あの方の衣に触りさえすればよくなれるだろう」と思い、何とかイエスに近寄ってその衣の房に触れた。すぐに彼女の血は止まった。
 するとイエスはそのことに気づいて言った。「今、誰が私に触ったのか」
 弟子たちは「こんなに群衆が押し合いへし合いしているのに、誰が触ったかと言われるのですか」と半ばあきれて答える。
 するとイエスは「今、力が私から出ていくのを感じたのだ」と答えた。
 女はばれてしまったのを観念し、恐る恐る前に出てひれ伏し、なぜ触ったか、そして今いかにすぐ癒されたかを告白した。
 イエスはそれを聞いて言った。「娘よ,元気を出しなさい。あなたの信仰があなたをよくならせた。平安のうちに行きなさい」》
 イエス自身、自らが知らないうちに治病が行なわれたことを感じて、驚いたのであろう。

 未浄化霊の憑依ということも、イエスは充分知っていた。こんな言葉も伝わっている。
《「汚れた霊は、人から出て来ると、休み場を求めて水のない場所を通るが、見つからない。そこで、『出て来た自分の家に戻ろう』と言う。そして帰って来ると、そこが空いていて、掃き清められており、きちんと片づけられているのを見つける。そこで、出て行って、自分より悪いほかの七つの霊を共に連れて来る。そして彼らは中に入ってそこに住みつく。その人の最後の状態は、最初よりも悪くなる」。》(マタイ2:43-45、ルカ11:24-26)
 ただ悪霊を祓っても、きちんと霊的ガードをし直さないと、もっとひどいことになる、と警告しているのだろう。

 病気治療というよりはむしろ奇跡現象と言えるものに、有名な「ラザロの復活」がある。イエスが愛したラザロを、死後四日、死臭が立ち始めた状態から甦らせたというものである。ただ、これは共観福音書にはなく、ヨハネ福音書のみの記事であるから、信憑性は薄い。死亡直後の魂を呼び戻したという事例は南米のシャーマニズムなどにも見られるし、イエスも「死んだ少女の蘇生」をしているが、四日というのはかなりきつい。ただヨハネ福音書は、これによって多くの信者ができたとし、またエルサレム神官の反感が増幅したとも書いていて、重要視している。元になる何らかの出来事はあったかもしれない。

 こうした奇跡的な治療者であれば、口コミによって拡がって、依頼者は殺到する。宣伝などをするのは、逆に能力の乏しい者である。
 「カファルナウムでの集団の癒し」「海辺の群衆の癒し」「ゲネサレトでの集団の癒し」は、そうした光景を描いているものだろう。かなり誇張はあるかもしれないが、イエスが信者や支持者のもとに逗留し、周囲の人を治療し始めれば、たちまちのうちに人々が集まってきたはずである。
 こうした中で、イエスは自らのメッセージを説いた。

      *      *      *

 霊的治療というのは、病(や憑霊)に苦しんでいる人を癒すわけだから、この上なく素晴らしいものである。治病者の側も、人々に奉仕するという「人間の霊的成長にとって最高の行為」ができる。近代スピリチュアリズムの大波が去り、霊的現象が頻発しなくなった後、イギリスでは「霊的治療」が地道に活動を続けた。第二次大戦後のブラジルでは、生活水準の低さと医療システムの不備から、病に苦しむ人は多く、それをスピリティスム(フランスのカルデックが始めたスピリチュアリズムの一派)が救い、爆発的な拡がりを見せた。
 論戦や感情的対立を招きがちな霊的知識や、低俗な好奇心を刺激しがちな超常現象よりも、霊的治療ははるかに素晴らしいものと言えるかもしれない。
 しかし、霊的治療は、万能ではない。よくそんなものがあるなら早くこの世から病人をなくしてくれ、と言う人がいるが、そういうものではない。
 シルバー・バーチの言葉を引こう。
 《霊的治療は魂がそれを受けるに価する段階に至るまでは何人といえども受けられません。いかに勝れた治療家にも治せない患者がいる理由はそこにあります。治らないのは治療家の責任ではありません。患者の魂にそれを受け入れる準備が整っていなかったということです。》(霊訓1 P135)
 こういう言い方をするのは人間には許されないことかもしれないが、その病気が魂の成長にとって必要な場合も多々あり、そうしたものは霊も治すことはしないということである。だから、霊的治療の成功率は100%ではない。あの「不世出の霊的治療家」ハリー・エドワーズでさえ、100%ではなかった。
 ではなぜ治ることもあるのか。
 《心霊治療には二つの大切な要素が働いております。一つは、患者が霊的治療を受け入れる準備が整ったということ。それで治療を施す人のところへ導かれて来たわけです。もう一つは、奇跡的な治癒体験によって霊的自我が目を覚まし、霊的意識の光の中で生きるようになる、その絶好機が訪れているということです。もしも霊的自我が目を覚まさなかったら、身体的な治癒は成功しても霊的には失敗だったことになります。》(霊訓9 P101)
 つまり霊的治療は、病気が治ることによって、「霊的覚醒」が起こることをめざしている。それがない場合はいくら病気が治ってもだめだというのである。
 まあ、現実でそういうことを多少なりとも見ていれば、治ったところで、「ああよかった」でおしまい、なぜ治ったのか、何が起こったのか考えようともしない人はたくさんいる。それでも治ったことは当人にとっても、それを媒介した治療者にとってもいいことだろうけれども、それは本義ではないということである。
 ちなみに言えば、霊的治療では、働いているのは霊である。彼らは愛の心と自らの修行のために、無償で奉仕しているわけである。だからそれを媒介する人間も同様でなければならない(電車賃や最低時給くらいはやむを得ないだろうが)。霊がタダでやっているのに人間が暴利を貪ったら、後でとんでもないことになる。

 イエスも、自らを支援する高級霊とともに、霊的治療を行なった。もちろんタダである。それによって「神の偉大さ」に気づいた人もいた。
 しかし、霊的治療は切りがない。ひどく地道な局地戦、消耗戦である。それに諄々と従事することも尊いが、イエスにはもっと切迫した使命というか、危機意識があった。

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2 コメント

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 (へちま)
2010-09-11 07:28:08
スエデンボルグに豚に関する記載がありましたので以下に引用します。

かの魔鬼は、主が彼らを狂人から追い出されたとき、自分らが豚の中へつかわされるように求めた。(マルコ5.7-13)
これらの魔鬼は身体の生命にいた頃は汚れた貪欲に溺れた者であった。こうした者は他生では豚の間に時を過ごしているように自分自身には思われている。豚の生活は貪欲に相応しており、それが彼らには快いものとなっている。
彼らの愛している生命は、他生では悪臭を発する排泄物のような生命に変化するのであって、しかも驚嘆すべきことには、彼らはその悪臭を極めて楽しいものとして認めているのである。

 最近のニュースなどでも悪霊に取り憑かれたとしか思えないような事件が多いです。「罪を憎んで人を憎まず」ということには真実が含まれていると思います。
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冒涜 (へちま)
2010-09-11 07:55:13
マタイ2:43-45の汚れた霊に関する内意はスエデンボルグに拠ると冒涜を戒めているようで以下に抜粋します。

不潔な霊が人間から立ち去ることにより、人間が転向することを記しており、彼が幾多の悪に帰り、その結果冒涜することが、彼自身より悪い7人の霊と共に帰って来ることにより記されている。
死ぬまで信仰と愛との中に続いて留まる者たちには、生命の冠を得ることを主は黙示録の中で教えられている。

善を知ってから悪に戻ることは、聖なるものを冒涜することです。そのため、善に関する知識は悪い者に知られないようにケルビムにより守られているということです。


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