ブッダがさとりの中で見たものは、さまざまな人が、業の法則に従って、生まれ変わり死に変わりしていくという姿であった。そしてそれ全体を動かしているモメントは欲であり無明であるというものだった。ブッダはこのようなことをさとったことで、「自分はもう生まれ変わらない」と宣言した。
しかし、改めて考えてみると、これはいささか無理な説ではないだろうか。
輪廻の原因や仕組みを知った。だからもう輪廻しない。――これはそのまま成り立たない。
確かに原因や仕組みを見抜くことで、問題全体が解消することはある。たとえばある種の腰痛は心理的問題が原因となって起こる。そのことを理解すると、腰痛そのものが解消する。精神分析ではトラウマを抑圧しているために症状が起こるが、そのことを意識が理解すると症状は解消する。主に心が関与している現象では成立する論理である。
だが、業はそうではない。業はあくまで行為の結果である。正しい行ないをしていれば善い報いがあり、間違った行ないをしていれば悪い報いがある。正しいこととはこういうことだと心がさとっただけでは、業は解消されない。
煩悩もまた、そうではない。煩悩はこういうものだと知ったとしても、それで自動的に煩悩がなくなるというわけではない。
ブッダの発言には「正しく知った、だからもう解脱した。もう生まれ変わることはない」という表現は頻出するし、弟子となる人々がブッダの説を聞いて、「心が煩悩から解脱した」といった記述もある。しかし、「真理を聞いて理解した」というのは、「法眼」と呼び初歩の段階とされ、その後に実践・完成がなされなければならない(「四諦三転説」)のであるから、いかにさとりが深くともそれだけではだめだということになる。
ではどうするか。輪廻を動かしているモメント、つまり欲や無明をひとつひとつ取り除いていかなければならない。そのためには、まずは欲や無明とは何かを正確に認識していかなければならない。そしてそれを滅するような行為をしていかなければならない。
ブッダが「正しい行ない」を説いたのは、従って当然の帰結である。ブッダは「四諦」として、①生は苦である、②苦は妄執から発生する、③苦しみから脱するためには妄執を滅しなければならない、④そのためには八つの正しい行ないをしなければならない、と説いた。その最後が「八正道」であるわけだが、それは以下のごとくである。
(1)正見(正しいものの見方)
(2)正思惟(正しい思考)
(3)正語(いつわりのない言葉)
(4)正業(正しい行為)
(5)正命(正しい職業)
(6)正精進(正しい努力)
(7)正念(正しい集中力)
(8)正定(正しい精神統一)
これらを知り、実践し、完成しなければならないのである。
でもわかるようでわからない。「正しい」と言われたって、何が正しいか正しくないかは、なかなか簡単には決められない。ただ「正しいことをしなさい」というのは、いささか内容空疎であるようにも思える。
ただ、これらがすべて必要だと説いたということは意義がある。正見や正定だけではだめだということだ。禅定して、真理を正しく捉え、それによって行為を積み重ねていくことによってしか、解脱は達成しえないのであって、業を解消するには、人間の行為全般を正さなければならないのだ。
つまり、はっきりと言えば、「さとり」=解脱は間違いなのである。
* * *
難癖をつけているように見えるかもしれないが、そうではない。
この問題は、霊学の問題としても、非常に重要な、難解なところなのである。
霊学的に見ると(スピリチュアリズム以来の霊的知見を総合すると)、人間が生きたまま、「高次の霊界」を体験することは、きわめて稀ではあるけれども、ありうるようである。それは、通常の霊魂が死後赴く世界を超えた、「この世の出来事の根源をなしているような」世界であり、その世界で働く叡智は、人間の知性をはるかに超えたものである。
そこで問題なのは、魂がそういった世界を体験したからといって、果たして「もう生まれ変わらなくてよい」ことになるかどうか、である。つまり、「高次霊界の体験をしたら、カルマや煩悩は解消されるのか」。
このあたりは、正直、よくわからない。そういった体験をした人はきわめて少ないし、そうした人たちがその後生まれ変わらなかった否かは、わかっていないからである。
ある達人(こうした体験を頻繁にしているとおぼしき人)のお話では、「カルマの解消がきわめて軽くなる」そうである。卑近な表現をすれば、足一本失うような「カルマの弁済」が、「膝痛」ぐらいになる、ということらしい。どうも下品(げぼん)の人間にはなかなか信じられない話であるし、この情報はほかに似たようなものが見あたらないので、判断は留保する。
ブッダが「私は正しく知った、だからもう生まれ変わることはない」と言ったことを、妄想だと言うつもりはない。
そうではなく、ブッダは、自分の過去生を思い出し、自分の地上での課題が、今回の生で終わることを知ったのかもしれない。過去生で何度も、カルマや煩悩を捨て去ることをなしてきた。そして今回でその「弁済」は終わる。ただしそのためには、いくばくかなすべきことがある。それが人に教えを説き、それによって人々の輪廻からの解脱を促進することだった。だから、ブッダは「こういうことを説いても誰にもわからないだろうから、このまま地上を去ろうか」という考えを捨てた。「梵天勧請」とは、自分の定めと役割を摂理として知らされたというブッダの体験の、神話的表現ではないだろうか。
「正しく知る」ことが、即、輪廻からの解脱ではないことは、前に引いた信徒たちの未来予言でも明らかになる。ブッダの教えを知ったからと言って、皆が「生まれ変わらない」となるわけではなかった。天界に行く人、もう一度だけ地上に戻る人、あと何回か戻るらしい人がいた。
つまりブッダ自身、何か教えを知ったり、瞑想による超常体験をしたりしても、必ずしもそれが輪廻の終焉を約束するものではないことを知っていたわけである。
ブッダは自身の輪廻が今回で終わることを知った。しかし、余の人々の輪廻の終了を、魔法の杖を振るように一挙に実現することはできないことも知った。
余の人々の輪廻は終わらない。だが、それからの離脱を促進することはできる。そのための指針が、「四諦八正道」であった。
ブッダは、苦の連続である輪廻からいかにして脱するかを目指し、輪廻の中で業がどのように機能しているかを省察し、それが欲や妄執から発生していることを究明した。
そして、輪廻を不可避とさせる欲や妄執を解体するために、欲や妄執、そして自己を含む存在すべてが固定した実体を持たないことを明らかにし、その無実体性を充分認識することで、欲や妄執を相対化・無意味化しようとした。
ブッダが縁起説を始め、さまざまな哲学を繰り出したのは、こういう意図だったのではなかろうか。つまり、彼の哲学は、あくまで輪廻解脱という目標とそれへの道筋を、いかに理論化するかというものであったのではないか。
ブッダは非常に理知聡明で、論戦でほとんどの相手を屈服させるほどの理論家だった。だから哲学理論が好きだったというところはあるかもしれない。しかし彼ほど聡明で求道的な人が、単に哲学のための哲学で満足していたとは思えない(現に彼は答えが確定しえない形而上学的問題を「役に立たないから論じない」として排除しているではないか)。
もちろん彼の哲学は、さとり体験で感得した輪廻と業の複雑な仕組みを、もっとも精緻に分析するものであったかもしれない。だが、どちらかと言えば、いかにして輪廻・業の仕組みを人に理解させるか、そして他の人々を論破ないしは啓蒙して、解脱へのプロセスに向かわせるか、というところに主眼があったのではないか。
ブッダが教義として体系だった倫理を説かず、八正道といった漠然としたリストを掲げ、あとは説く相手に従った「対機説法」をしたとされているのも、業の消除という問題は、それぞれの個人によってまったく異なるものであり、宗教的教育によって一気に解決できるようなものではなかったからではなかろうか。
しかし、改めて考えてみると、これはいささか無理な説ではないだろうか。
輪廻の原因や仕組みを知った。だからもう輪廻しない。――これはそのまま成り立たない。
確かに原因や仕組みを見抜くことで、問題全体が解消することはある。たとえばある種の腰痛は心理的問題が原因となって起こる。そのことを理解すると、腰痛そのものが解消する。精神分析ではトラウマを抑圧しているために症状が起こるが、そのことを意識が理解すると症状は解消する。主に心が関与している現象では成立する論理である。
だが、業はそうではない。業はあくまで行為の結果である。正しい行ないをしていれば善い報いがあり、間違った行ないをしていれば悪い報いがある。正しいこととはこういうことだと心がさとっただけでは、業は解消されない。
煩悩もまた、そうではない。煩悩はこういうものだと知ったとしても、それで自動的に煩悩がなくなるというわけではない。
ブッダの発言には「正しく知った、だからもう解脱した。もう生まれ変わることはない」という表現は頻出するし、弟子となる人々がブッダの説を聞いて、「心が煩悩から解脱した」といった記述もある。しかし、「真理を聞いて理解した」というのは、「法眼」と呼び初歩の段階とされ、その後に実践・完成がなされなければならない(「四諦三転説」)のであるから、いかにさとりが深くともそれだけではだめだということになる。
ではどうするか。輪廻を動かしているモメント、つまり欲や無明をひとつひとつ取り除いていかなければならない。そのためには、まずは欲や無明とは何かを正確に認識していかなければならない。そしてそれを滅するような行為をしていかなければならない。
ブッダが「正しい行ない」を説いたのは、従って当然の帰結である。ブッダは「四諦」として、①生は苦である、②苦は妄執から発生する、③苦しみから脱するためには妄執を滅しなければならない、④そのためには八つの正しい行ないをしなければならない、と説いた。その最後が「八正道」であるわけだが、それは以下のごとくである。
(1)正見(正しいものの見方)
(2)正思惟(正しい思考)
(3)正語(いつわりのない言葉)
(4)正業(正しい行為)
(5)正命(正しい職業)
(6)正精進(正しい努力)
(7)正念(正しい集中力)
(8)正定(正しい精神統一)
これらを知り、実践し、完成しなければならないのである。
でもわかるようでわからない。「正しい」と言われたって、何が正しいか正しくないかは、なかなか簡単には決められない。ただ「正しいことをしなさい」というのは、いささか内容空疎であるようにも思える。
ただ、これらがすべて必要だと説いたということは意義がある。正見や正定だけではだめだということだ。禅定して、真理を正しく捉え、それによって行為を積み重ねていくことによってしか、解脱は達成しえないのであって、業を解消するには、人間の行為全般を正さなければならないのだ。
つまり、はっきりと言えば、「さとり」=解脱は間違いなのである。
* * *
難癖をつけているように見えるかもしれないが、そうではない。
この問題は、霊学の問題としても、非常に重要な、難解なところなのである。
霊学的に見ると(スピリチュアリズム以来の霊的知見を総合すると)、人間が生きたまま、「高次の霊界」を体験することは、きわめて稀ではあるけれども、ありうるようである。それは、通常の霊魂が死後赴く世界を超えた、「この世の出来事の根源をなしているような」世界であり、その世界で働く叡智は、人間の知性をはるかに超えたものである。
そこで問題なのは、魂がそういった世界を体験したからといって、果たして「もう生まれ変わらなくてよい」ことになるかどうか、である。つまり、「高次霊界の体験をしたら、カルマや煩悩は解消されるのか」。
このあたりは、正直、よくわからない。そういった体験をした人はきわめて少ないし、そうした人たちがその後生まれ変わらなかった否かは、わかっていないからである。
ある達人(こうした体験を頻繁にしているとおぼしき人)のお話では、「カルマの解消がきわめて軽くなる」そうである。卑近な表現をすれば、足一本失うような「カルマの弁済」が、「膝痛」ぐらいになる、ということらしい。どうも下品(げぼん)の人間にはなかなか信じられない話であるし、この情報はほかに似たようなものが見あたらないので、判断は留保する。
ブッダが「私は正しく知った、だからもう生まれ変わることはない」と言ったことを、妄想だと言うつもりはない。
そうではなく、ブッダは、自分の過去生を思い出し、自分の地上での課題が、今回の生で終わることを知ったのかもしれない。過去生で何度も、カルマや煩悩を捨て去ることをなしてきた。そして今回でその「弁済」は終わる。ただしそのためには、いくばくかなすべきことがある。それが人に教えを説き、それによって人々の輪廻からの解脱を促進することだった。だから、ブッダは「こういうことを説いても誰にもわからないだろうから、このまま地上を去ろうか」という考えを捨てた。「梵天勧請」とは、自分の定めと役割を摂理として知らされたというブッダの体験の、神話的表現ではないだろうか。
「正しく知る」ことが、即、輪廻からの解脱ではないことは、前に引いた信徒たちの未来予言でも明らかになる。ブッダの教えを知ったからと言って、皆が「生まれ変わらない」となるわけではなかった。天界に行く人、もう一度だけ地上に戻る人、あと何回か戻るらしい人がいた。
つまりブッダ自身、何か教えを知ったり、瞑想による超常体験をしたりしても、必ずしもそれが輪廻の終焉を約束するものではないことを知っていたわけである。
ブッダは自身の輪廻が今回で終わることを知った。しかし、余の人々の輪廻の終了を、魔法の杖を振るように一挙に実現することはできないことも知った。
余の人々の輪廻は終わらない。だが、それからの離脱を促進することはできる。そのための指針が、「四諦八正道」であった。
ブッダは、苦の連続である輪廻からいかにして脱するかを目指し、輪廻の中で業がどのように機能しているかを省察し、それが欲や妄執から発生していることを究明した。
そして、輪廻を不可避とさせる欲や妄執を解体するために、欲や妄執、そして自己を含む存在すべてが固定した実体を持たないことを明らかにし、その無実体性を充分認識することで、欲や妄執を相対化・無意味化しようとした。
ブッダが縁起説を始め、さまざまな哲学を繰り出したのは、こういう意図だったのではなかろうか。つまり、彼の哲学は、あくまで輪廻解脱という目標とそれへの道筋を、いかに理論化するかというものであったのではないか。
ブッダは非常に理知聡明で、論戦でほとんどの相手を屈服させるほどの理論家だった。だから哲学理論が好きだったというところはあるかもしれない。しかし彼ほど聡明で求道的な人が、単に哲学のための哲学で満足していたとは思えない(現に彼は答えが確定しえない形而上学的問題を「役に立たないから論じない」として排除しているではないか)。
もちろん彼の哲学は、さとり体験で感得した輪廻と業の複雑な仕組みを、もっとも精緻に分析するものであったかもしれない。だが、どちらかと言えば、いかにして輪廻・業の仕組みを人に理解させるか、そして他の人々を論破ないしは啓蒙して、解脱へのプロセスに向かわせるか、というところに主眼があったのではないか。
ブッダが教義として体系だった倫理を説かず、八正道といった漠然としたリストを掲げ、あとは説く相手に従った「対機説法」をしたとされているのも、業の消除という問題は、それぞれの個人によってまったく異なるものであり、宗教的教育によって一気に解決できるようなものではなかったからではなかろうか。
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