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【仏教って何だろう⑤】ブッダの「さとり」とは

2010-06-25 03:16:47 | 高森光季>仏教論1・仏教って何だろう
 さて、一番重大、かつ難問である、ブッダの「さとり」について少し外野から考えてみる。
 ブッダのさとりとはこういうものだった、という定説はない。ブッダ自身が、自分のさとりとはこういうものでした、と明確に広く主張した形跡もない。
 近代仏教学では、ブッダがさとったのは、「十二因縁」だとか「四諦八正道」だとか「中道」だとか、いろいろと論じられている。あるいは、それらは後になって形式的に整備されたものであって、もともとは「諸行無常・諸法無我」つまりすべてのものに実体はないとする認識だったのだとか、「依他起性」つまりすべては関係性(因果律)によってのみ成り立っているとする思想だったとかいう主張もある。だが、これらはさとりの内容そのものではなく、それを何とか言語化しようとする試みであったり、人に対して説法をするための整理された教説であるのではなかろうか。

 近代仏教学(というより近代文献学によるインド哲学者)の泰斗・中村元氏はブッダのさとりについてこう述べている。
 《第一に仏教そのものは特定の教義というものがない。ゴータマ自身は自分のさとりの内容を定式化して説くことを欲せず、機縁に応じ、相手に応じて異なった説き方をした。だからかれのさとりの内容を推しはかる人々が、いろいろ異なって伝えるにいたったのである。
 第二に、特定の教義がないということは、決して無思想ということではない。このようにさとりの内容が種々異なって伝えられているにもかかわらず、帰するところは同一である。既成の信条や教理にとらわれることなく、現実の人間をあるがままに見て、安心立命の境地を得ようとするのである。……
 第三に、人間の理法というものは固定したものではなく、具体的な生きた人間に即して展開するものであるということを認める。最初期の仏教がそのように表明しているのではないが、変化や発展を許したその立場がこのような解釈を可能ならしめる。後世になって仏教のうちに多種多様な思想の成立した理由を、われわれはここに見出すのである。》(『ゴータマ・ブッダⅠ』)
 大家に対して失礼であるが、曖昧模糊としている。「既成の信条や教理にとらわれることなく、現実の人間をあるがままに見て、安心立命の境地を得ようとするのである」という説明は、筆者にはかなり無内容なものに思える。

 そもそも「さとり」という概念が、非常に曖昧である。これは、瞑想によってもたらされるある種の精神状態を指したり、何らかの世界観や「真理」の直観的把握であったり、ある種の命題を実存的に体得することであったり、と、さまざまなニュアンスをこめられて語られる。
 そして「さとりとはこういうものですか」という問いには、大方の仏教徒は「そうではない」と答えるもののようだ。さとりというものは非常に高度なものなので、定義したり説明したりできない、しかしそれは非常にありがたいものであり、仏教にとって欠かせないものなのだ、と。
 まあこのあたりに仏教の鵺(ヌエ)的性格が由来しているのだろうが、何だかよくわからないもの(説いている当人にとってすらよくわからないもの?)を聖化したり絶対化したりするのは、あまりフェアではないし少なくとも生産的な態度ではないように思う。

 日本の禅仏教では、しばしばさとりを「禅によって得られる安らかで清らかな精神状態」として説くが、これはブッダの歩みを見る限り、成立しない。ブッダは、出家後、アーラーラ仙とウッダカ仙について禅定を学び、それをマスターしたが、それに飽き足らずに苦行へと向かった。つまり禅定はさとりではなかった。
 ちなみに、アーラーラ仙は「無所有」の禅定を、ウッダカ仙は「非想非非想」の禅定を修していたというが、中村元氏はこれに疑問を呈している。「無所有」「非想非非想」は、最古の経典『スッタニパータ』にブッダが自らの瞑想法として説いており、初期仏教が行なっていた瞑想であった。仏教が発展するにつれ、より高度な境地を作り出す必要が生じ、それとともに在来の瞑想法を、この両仙人のものと外部化して表現したのだという。興味深い点で、正しいような感じもするが、筆者の力量を超える問題なので何とも言えない。
 ともあれ、「無所有」「非想非非想」は、禅の境地としてきわめて高いもので、容易に到達できないものだとされる。パーリ語の『清浄道論』には、高い瞑想の境地を獲得した者は、様々な超能力が身に付くとされている。しかし、いずれにせよ、これらのことは、さとりにとっては、方法というか準備段階に過ぎず、それらを踏まえつつ、その先にあるのがさとりだということになる。
 水野弘元氏はこのあたりを次のように述べる。
 「禅定……は、心の状態を表わす形式にすぎず、そこには心の対象としての内容そのものは、何も問題にされていない。……それは仏教的な用語によれば智慧である。……禅定は心の内容である智慧を豊富にし純化し、また智慧を有効に活躍させるために役立つものである。」(『釈尊の生涯』)
 つまり、心の状態としての境地はさとりではなく、その向こうにある何かだということになる。

 さて、禅定の向こうにあるさとりとは。それは何らかの「真理」の直観的把握なのだろうか。
 これを哲学的真理の感得とする見方もある。「人間の苦は欲望から生じる」「すべての出来事は因と果の関係性から生じている」「すべてのものは永遠不変でなく、従って実体を持たない」といった「真理」(命題)が、釈迦のさとりの中核だというのである。
 宮元啓一氏は、ブッダのさとりの核心は「因果論」にあったとしている。
 同氏は『大品』の「まことにこの世間の人々は、愛着(アーラヤ)を楽しみ、愛着を好み、愛着を喜んでいる。……(そのような)世間の人々には、これを縁として〔かれが成立する〕ということ(此縁性)と縁起と、これらの道理は見がたい。また、すべての記憶や意志などという心の作用が鎮まること、すべての執着を捨て去ること、渇愛の消滅、貪欲を離れること、(苦である輪廻的な生存の)止滅、究極の安楽(涅槃)という、この道理も見がたい」に見られるような、因と果の思想は、それ以前の誰もが見いだせなかった革新的真理だとし、そこにブッダの偉大さを見いだしている。ただし、ブッダのさとりは、真理それ自体ではなく、「境地」だとも言う。
 《こうした、此縁性を用いて徹底的に経験的な事象を観察し、縁起を考察し尽くして初めて得られる境地は、もちろんながら、ゴータマ・ブッダ以前の誰も到達したことのない境地なのです。》(『仏教かく始まりき』)
 瞑想による心理状態ではなく、それによって得られる真理でもなく、それらによって到達する境地、ということになるのだろうか。

 結局、ブッダのさとりとは何だったかということは、わからない。
 まあ、改めて考えてみると当たり前の話で、「さとり」はブッダの内的体験である。内的体験というのは、誰のものであれ、決定不能・叙述不能なものである。そこには直観・思考・感情・感覚などの諸要素が働くが、そのどれにも還元できない。外的に表現することはもちろん、当事者にとっても叙述不能なものである。
 だから、「さとり」というものを掲げる仏教は、曖昧にならざるを得ない。ブッダのさとりもそうだが、修行者のさとりも、基本的には「把握不能」なものだからである。
 これを何とかするために、禅では「公案」とか「問答」といった「さとりの真偽を探る方法」が開発された。しかしその判定基準も「師の内的判断」になるわけで、外から見れば曖昧であることは変わらない。「修行の妨げになる子猫を殺したのは正しかったか」という問いに「草履を頭の上に載せて立ち去った」のが、さとった人の証明であると言われても、筆者のような凡人には「?」である(「南泉斬猫」)。もちろん、達人には達人の世界があるから、でたらめではないだろうが、達人以外には決してわかることのないものであろう。達人にならないとわからない宗教があることは否定しないが、それは普遍宗教としての仏教からは少しはずれることになるだろう。

 結局のところ、さとりとは何かははっきりわからず、しかし、それは尊い、というより無上の価値のあるものだとする、そういう曖昧性の上に仏教は成立している。修行をし、我欲を離れ、叡智を獲得していくと、どういうものかとはっきりは言えないが、さとりが得られ、そうすると、何かしらいいこと――心の平安とか、自由で闊達な菩薩的人格とか、輪廻からの解脱とか、説く人によって異なるが、とにかくいいこと――が得られる。
 こうした曖昧なところが仏教の奥深さであり、素晴らしさであるという見方もある。「神を信じ善行を積めば最後の審判でいい判定が出て天国へ行けますよ」といったキリスト教の単純な命題とは異なるわけで、それがいいのかもしれないし、そうでないのかもしれない。

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