スピリチュアリズム・ブログ

東京スピリチュアリズム・ラボラトリー会員によるブログ

【人生の苦悩】(9) 放蕩息子の物語

2010-12-13 00:09:41 | 高森光季>人生の苦悩

 生きるということは苦悩を伴うものです。ブッダは「生は苦である」と言った。生まれること、老いること、病むこと、死ぬこと、愛する者と別れること、憎む人と会うこと、求めるものが得られないこと、物事に執着すること……。要するに生の営みすべてが苦をもたらす、と。
 もっとも、世の中には、あまり生を苦と感じない人もいるようです。たまたま恵まれた境遇に生きているせいもあるのかもしれませんし、前向きにすべてを捉えているせいもあるかもしれません。実際、私のまわりにもそういう人は少ないなりにいます。うらやましいと言うべきなのか、種族が違うというべきなのか、ちょっとよくわからないところがありますけれども。

 苦は苦だとしても、それは何としてでも避けるべきものではなく、むしろ意義があるものだと捉える考え方もあります。スピリチュアリズムはまさしくそう考えます。
 苦によって、人は、より深い知恵を知る。自己の限界と小ささを知る。想像力を深める。他者への共感力を得る。「大いなるもの」への畏敬を高める。苦悩は、霊的成長のための不可欠な要素なのです。
 心理学者フランクル(彼は全然霊魂実在論者ではありません)は、『苦悩する人間』という書を著わして、苦悩こそが人間の本質なのだと説きました。彼は、「人間はその苦悩に意味があるのならば、どのような苦悩にも耐えることができる」と述べています。彼は何とかあれこれ論じて「どんな生にも意味がある」と論証しようとしました。
 確かにその通りで、苦悩に意味がないのなら、苦悩はいやなもの、何としてでも避けるべきものでしかありません。
 しかし、苦悩には意味がある。苦悩することで、魂は豊かに成長する。それがスピリチュアリズムの主張です。

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 シルバー・バーチは言います。
 「人生体験のすべてがそれぞれに大きな生命機構の一部としての意義をもっております。およそ歓迎したくない体験――悲しいこと、辛いこと、嘆き、落胆、苦悩、悩み等々も魂にとって掛けがえのない価値をもっております。その有難さは地上にいる間は実感できません。地上人生の価値の明確な全体像が理解できるようになるのは、肉体を離れて煩悩から解放され、局部にとらわれずに全体を眺めることができるようになった時です。逆境の中にあってこそ人間性が鍛えられ、悲哀の中にあってこそ魂が強化されていることが分かります。」(霊訓12、150頁)

 マイヤーズ通信から。
 「大精神(Mighty Idea)が生み出したこれらの無慮無数の想念、ないし諸霊たちは、互いに個別な存在である。これらのほとんどすべては、物質の中に顕現し活動する以前においては、粗雑で、無知で、不完全な胎児のごときものであった。彼らが自らを完成し、完全な智恵と真の実在に到達するまでには、数知れない経験を積み、また無数の形態の中に自己を現わし表現し続けなければならないのである。
 それゆえ、これらの諸霊が宇宙に出現し、様々な外観を持ち、また人間としての地上生活の悲喜こもごもを経験する理由は、皆ことごとく、『霊の進化』ということばの中に見出されるのである。霊の進化は幾多の制約を忍びつつ、また形態的表現を繰り返すことによって達成される。この表現を通してのみ霊は胎児状態から成長し進歩する。またこうした形態的顕現を通してのみ完成に至るのである。」(『不滅への道』第一章)

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 こうした霊魂の成長の道を、隠喩的に表現したのが、「放蕩息子の物語」です。
 20世紀ギリシャに生きた霊能者・叡智者“ダスカロス”(スピロス・サティ)は、「なぜ魂は生まれ変わりを繰り返しつつ成長していかなければならないか」という問いに、次のように答えます。
 「たぶん、自分が誰であるか気づき、そして、自己意識を獲得するためだろうと思う」、「私たちが獲得するのは、存在性の中の個性だ。私たちは、自分の存在性に意識を持つようになる。これが最終的な目標でなければ、物質の世界への下降やそれに続く輪廻の意味がない。キリストは、放蕩息子の替え話で、人間が存在していることの意味を暗示的に示そうとしている」。

 この物語は『ルカによる福音書』にあります。ちょっと長いですが電網聖書から引用します。
 《15:11 彼は言った,「ある人に二人の息子がいた。 15:12 そのうちの年下のほうが父親に言った,『お父さん,財産のうちわたしの取り分を下さい』。父親は自分の資産を二人に分けてやった。 15:13 何日もしないうちに,年下の息子はすべてを取りまとめて遠い地方に旅立った。彼はそこで羽目を外した生活をして自分の財産を浪費した。 15:14 すべてを使い果たした時,その地方にひどいききんが起こって,彼は困窮し始めた。 15:15 彼はその地方の住民たちの一人のところに行って身を寄せたが,その人は彼を自分の畑に送って豚の世話をさせた。 15:16 彼は,豚たちの食べている豆のさやで腹を満たしたいと思ったが,彼に何かをくれる者はいなかった。 15:17 だが,我に返った時,彼は言った,『父のところでは,あれほど大勢の雇い人たちにあり余るほどのパンがあるのに,わたしは飢えて死にそうだ!  15:18 立ち上がって,父のところに行き,こう言おう,「お父さん,わたしは天に対しても,あなたの前でも罪を犯しました。 15:19 わたしはもはやあなたの息子と呼ばれるには値しません。あなたの雇い人の一人のようにしてください」』。
15:20 「彼は立って,自分の父親のところに帰って来た。だが,彼がまだ遠くにいる間に,彼の父親は彼を見て,哀れみに動かされ,走り寄って,その首を抱き,彼に口づけした。 15:21 息子は父親に言った,『お父さん,わたしは天に対しても,あなたの前でも罪を犯しました。わたしはもはやあなたの息子と呼ばれるには値しません』。
15:22 「だが,父親は召使いたちに言った,『最上の衣を持って来て,彼に着せなさい。手に指輪をはめ,足に履物をはかせなさい。 15:23 肥えた子牛を連れて来て,それをほふりなさい。そして,食べて,お祝いをしよう。 15:24 このわたしの息子が,死んでいたのに生き返ったからだ。失われていたのに,見つかったのだ』。彼らは祝い始めた。
15:25 「さて,年上の息子は畑にいた。家のそばに来ると,音楽や踊りの音が聞こえた。 15:26 召使いたちの一人を呼び寄せ,どうしたのかと尋ねた。 15:27 召使いは彼に言った,『あなたの弟さんが来られたのです。それで,あなたのお父様は,弟さんを無事に健康な姿で迎えたというので,肥えた子牛をほふられたのです』。 15:28 ところが,彼は腹を立て,中に入ろうとしなかった。そのため,彼の父親が出て来て,彼に懇願した。 15:29 だが,彼は父親に答えた,『ご覧なさい,わたしはこれほど長い年月あなたに仕えてきて,一度もあなたのおきてに背いたことはありません。それでも,わたしには,わたしの友人たちと一緒に祝うために,ヤギ一匹さえ下さったことがありません。 15:30 それなのに,あなたの財産を売春婦たちと一緒に食いつぶした,このあなたの息子がやって来ると,あなたは彼のために肥えた子牛をほふられました』。
15:31 「父親は彼に言った,『息子よ,お前はいつもわたしと一緒にいるし,わたしのものは全部お前のものだ。 15:32 だが,このことは祝って喜ぶのにふさわしい。このお前の弟が,死んでいたのに生き返ったからだ。失われていたのに,見つかったのだ』」。》

 そしてダスカロスによる読み解きを。
 「キリストは、王様の二人の息子の一人が父親の宮殿を出て行く決心をした話を語った。息子は世界を経験してみたいので、財産を分けてくれるように頼んだ。
 もし神の計画の一部になかったら、賢い父親は断わっていただろう。しかし、計画は、彼が宮殿を出て行き、いろいろな苦労をし、知識を獲得して帰るというものだった。息子には、彼が願ったものが与えられた。実際には、理性、感情、そして肉体で、つまり現在の人格と呼んでいるものだ。彼は自分の取り分をもらい、旅に出た。宮殿から出て、物質の世界へ下降するのを、罪とか人間の堕落と呼ぶ人たちもいる。私はこれを経験と呼びたいと思う。この新しい状況で、息子は自分の遺産を乱用して、結果として豚飼いになってしまった。実際に彼は、エレメンタル〔想念体。人間の想念によって作り出される物質に近いもの〕をつくり、自分にもエレメンタルにも同じ食物をあてがったのだ。その食物とはマインドの最も低いレベルの表現。譬え話の豚は、人間が絶えずつくり出しているそれらのエレメンタルを象徴している。
 ある日、彼は豚たちと暮らしている自分の生活に疑問を待ち、反抗した。エレメンタルの世界に対しての反感である。召使いでさえ、幸せに暮らしている父の宮殿に帰る決心をする。彼は、〈父上、私は罪を犯しました。父上の召使いの一人にして下さい〉と言った。息子は一歩前に進んだが、父親は十歩前に進んだのだ。罰は下っただろうか。この話に非難とか罰が出て来るだろうか。父親は腕を開き、息子を抱きしめ、宮殿に連れ帰った。罰を与える代わりに、永遠のシンボルである指輪をはめてあげた。人生は動きだ。この指輪の輪のどの方向にも行けるが、止まることはできない。初めも終わりもない。あるのは、不滅を象徴する永遠の動き。宮殿を出ることをしなかったもう一人の息子は、永遠の現在に生きている。彼は永遠の意味を知らない。しかし、人間は豚飼いの経験を通して、過去、現在、そして未来としての時間を味わっている。父親は、この話によると、彼の兄の服を着せてあげた。放蕩息子が今まで持っていたものは失っていないということだ。それから、父親は肉体の象徴である子牛を殺した。もう一人の息子が抗議した。
 〈ずっと、忠実だった私には何をしてくれましたか〉
 しかし、大天使であるこの息子は、肉体に宿ったことがない。
 〈私の持っているものすべては、お前のものだ〉
 と父親は答えた。さあ、どちらの方がいい立場にいるだろうか。宮殿の外に出たことのない大天使だろうか。大天使は善であり、善しか知らない。それとも、帰って来た放蕩息子だろうか。彼は兄弟の持つものはすべて待ち、その上に自己意識も持っている。神との一体化(放蕩息子が宮殿に戻った状態)においては、人間の状況がすべての大天使のシステムよりも優位であるというのが根本原理である。したがって、最終的には永遠の罰などない。私たちの自己意識を成長させてくれる、物質界の経験を獲得するだけだ。」(K・マルキデス『メッセンジャー』太陽出版、154-5頁)

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 苦しみ、じたばたし、過ちを犯し、罪を犯し……そうやって生きていく。
 そういう負のものを経験したがゆえにいっそう豊かに成長していく。
 それが定めなのでしょう。だから、苦悩も、過ちも、罪さえも、すべてが意味があるわけです。
 いろんな経験を積んで、長い旅をして、懐かしい父の家に帰ることを夢見ましょう。


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