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【霊学的イエス論(14)】「神の子」と「メシア」

2010-10-01 00:10:00 | 高森光季>イエス論・キリスト教論
◆自分でメシアと言ったか

 イエス自身は、自分を「神の子」とも言っていないし、「救世主」つまりメシアないしキリストとも言っていない。(「キリスト」はメシアのギリシャ語訳)
 こういうと、驚く人は驚くだろうし、反論する人は反論するだろう。もちろん知っていて「なにを今さら」と言う人もいる。
 このことは、三つの福音書の比較によって明らかになる。
 最も古いマルコには、神の子、ないし救世主に関して言及のあるのは、次の箇所である(教学問答の中に出るのを除く)。

 〈神の子〉
  →悪霊が2回、イエスをこう呼んだ(3:11、5:7。なお 3:11の所では、「そんなことを言ってはいかん」と厳しく戒めたとある)。
  →刑死の後、百人隊長が「本当にこの人は神の子だった!」と言った。
 〈救世主〉
  →「お前たちは俺のことを何だと思っているのか」という問いにペテロが「キリストです」と答えると、「そんなことを誰にもいうな」と戒めた(8:29)
  →弟子たちに「キリストの者だという理由でお前たちに一杯の水を与える者は、必ずその報いを受ける」と言った。(9:41)
  →逮捕後の大祭司の尋問「お前はほむべき方の子、メシアなのか」に、「あんたたちがそう言っている」と答えた(カイサリア系写本による)。
  →十字架の上で祭司長たちから「救世主でイスラエルの王ならそこから降りてこい」とからかわれる(15:32)。

 これだけである。なお大祭司の「お前はメシアか」という問いに、「そうだ」と答えたとする写本もあるが、マタイとの比較から上記のものが正しい可能性が高い(「そうだ」はアレクサンドリア系、西方系で、日本語訳はこれを採用しているという。このあたりのことは田川先生の考証に拠っている)。「一杯の水」の箇所も、後からの改竄(挿入)であろう(マタイの並行箇所10:42にキリストという語はない)。
 つまり、イエスは自らを救世主(メシアないしキリスト)と呼んだことも、「神の子」と名乗ったことも、ないのだ。
 ルカも、バプテスマのヨハネがイエスをメシアだとほのめかしたという記述(3:16)が加わるくらいのもので、基本的には同じである。
 マタイになると、大きな一歩が踏み出される。上記の「お前たちは俺のことを何だと思っているのか」という問いの場面で、ペテロが「あなたはキリスト、生ける神の子です」と答え、それに対しイエスが「お前は幸いだ、天の国を授けよう」とほめられる。これはローマ教会の正統化を意図した改竄、でっち上げである。また、別の箇所では、弟子たちに「あなたがたは教師と呼ばれてはいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである」と諭し、自分をキリストに擬している(23:10)。

 さらにマタイ・ルカには、大きなトリックが隠されている。
 それが「神」を指す意味での「わたしの父」である。「あなた方の父」という言い方は別によく使われるが、それとは違う、あくまでも「わたしの」父という独占的な表現である。この「天にいる神=わたし(だけ)の父」という表現で、マタイやルカはイエスを神の子に仕立て上げるのである。
 こういった表現はマルコには一切出てこない(8:38の終末予言に微妙な表現はあるが)。しかし、ルカでは4ヶ所、マタイではなんと13ヶ所も使われている。しかも、ルカとマタイでは同じ場面ではない。つまり両者が共通に資料とした「Q」にはこうした表現はないということである。
 つまりルカやマタイは、マルコやQにはなかった「わたしの父である神」という表現を、「イエス=神の子」という前提で、ないしはそれを強化する意図で、勝手に付け加えたということである。

 ちなみに、ヨハネ福音書になると、話はもっとひどくなり、イエスは神のひとり子である、という思想ですべてが貫かれる。そしてイエスが使っていた「あなた方の父である神」という表現は一切消えてなくなる。さらには、こんな表現まで出てくる。
 「もし神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずだ。なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。……あなたたちは悪魔である父から出た者であって、その父の欲望を満たしたいと思っている。……」(8:42-44)
 まあこれはひどい話で、対立者を悪魔呼ばわりしているわけである。イエスにはこういう思想はない。同じ「福音書」と名が付いているのに、こんなにも内容が異なるのだ。

 イエスは自らそう宣言しなかった(むしろそう見られることを回避した)のだが、彼に「自分はメシアだ」「自分は選ばれた神の子だ」といった意識がまったくなかったかどうかとなると、いささか疑わしい。
 「逆説的反抗者」「宗教批判者」としてのイエス論を展開した田川先生ですら、イエスには自らをメシアと近づけるような「異様に高揚した意識」「宗教的熱狂」があったとしている。
 《……イエスが自分自身を、神より特別な使命を託された者として、あるいは何らかの意味で独得な「神の子」として〔中略〕みなす自意識を持っていた、ということは大いにありうることである。学者はこれを「メシア意識」と呼ぶ。》(旧版331頁)
 つまり、「自分をメシアと規定しなかったが、メシア意識を持っていた」ことになって、これは奇妙な構造ということになってしまう。このあたりは学者さんたちの間でもいろいろ議論があるらしい。
 ただ、普通に考えれば、別に問題はないようにも思える。イエスは、ユダヤ教が規定しているようなメシア――イスラエルを地上の支配者とし、正しいヤハウェ信仰者とそうでない者とを裁く審判を行なう者――だという意識は毛頭なかった。特にイスラエル独立派から政治的大指導者と目されるようなメシアなど、とんでもないという思いだった。しかし、イエスは「神の使命」を担う者であることを自覚していた。そのことに関しては「熱狂的」と言えるほどの自負を持っていた。
 なぜか。そして「使命」として何をなそうとしていたのか。それはもう少しイエスの発言を見てから改めて述べることにする。

◆誰もが神の子

 「神の子」問題に関して、多くの人が指摘していることだが、イエスの「とんでもない革命性」がある。
 それは「あんたたちはみんな神の子だよ」と宣言したことである。
 ちなみに、「神の子」という概念は、ユダヤ教にもないわけではない。ただ、それは預言者のような宗教的偉人に対して当てはめられるものであって、普通の人間は、信仰を深めてそれを目指すにせよ、とても手の届くようなものではなかった(らしい)。
 それを、イエスはひっくり返した。いや、誰もが神の子なんだ、と。

 改めて言うまでもないが、ユダヤ教の神は、人間とは断絶した高みにある、恐ろしい存在だった。人間は神が慰みに創ったものであり、生殺与奪は神の手にあった。神に対して人間がなすべきことは、絶対の崇拝と服従である。旧約聖書は、神の人間への試み・疑いと怒りをもった裁きの連続である。そもそも人間は被造物のくせに勝手に知恵の実を盗み食べ、神から離反した罪深き存在である。それをひたすら悔い、神の掟に絶対服従することが人間の義務である。怒りをなだめ、許しを乞うのが神への対し方である。
 こうしたユダヤ教の神観念を、イエスはあっさりとぶち壊した。「俺たちはみんな神の子だよ」「神様は、親父だよ」と。

 「空の鳥たちを見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは鳥より価値あるものではないか。あなたがたのうち誰が、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか。何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと思い煩うな。あなたたちの父は、あなたたちにそれらが必要だということを知っておられる。」(マタイ6:25-31、ルカ12:24-29)
 「息子がパンを求めているのに石を与える父親がいるだろうか。魚を求めているのに蛇を与える父親がいるだろうか。あなたたちのような悪人でさえ自分の子供には良い贈り物をする。まして天におられるあなた方の父は、求めれば良いものを与えてくださらないわけがない。」(マタイ7:9-11、ルカ11:11-13)

 そして、有名な「主の祈り」(マタイ6:9-13、ルカ 11:1-4)。イエスは弟子たちから「どのように祈ったらいいでしょう」と問われて、ユダヤ教のカディッシュという短い祈りを、さらに簡潔にして、教えた。
 「父さん、お名前が聖められますよう。あなたの国が来ますように。われわれの毎日のパンを今日も与えてください」と(田川先生の考証に拠っている)。
 神に向かって、父さんと呼びかけろと言っているのである。

 上記二つはいずれもQからのものであるが、「あなた方の父」という表現はマルコにもないわけではない。
 「あなた方が立って祈る時に、誰かに対して恨み事があるなら、それを許しなさい。そうすれば、天におられるあなた方の父もあなた方の違反を許してくださるだろう。もし許さないなら、あなた方の天の父も、あなた方の違反を許してくださらないだろう。」(11:25-26)

 この「父である神」との深い絆こそ、イエスが人々に説いたことの要の一つである。スピリチュアリズム流に言うなら(神道流に言ってもいいが)、われわれは皆神の分霊である、ということになろうか。
 「父なる神」という表現は、ユダヤ教聖書にはないものであるが、イエスの少し前からユダヤ教の中では言われ始めていたそうである。ユダヤ教がこの時代、かなり変質していたことを窺わせる。だが、イエスが単に周囲で言われるようになった新しい概念を取り入れたとは思えない。
 ここには、神への全幅の信頼がある。捧げ物をして取り引きしたり顔色を窺ったりする必要のある神ではなく、子供に無条件に慈愛を注ぐ神。創造主と被造物という断絶もここにはない。しかも、神というものはそういうものだ、という知的な理解ではなく、心底そう思っていたことが感じられる。

 余談だが、「父」なる神は、近代では評判が悪い。ユダヤ教に始まるセム系一神教(ユダヤ教・キリスト教・イスラーム)が抜きがたい「さが」として持っている父権主義の表現であり、女性差別の根源だというわけだ。それに関しては抗弁の余地はないように思われる。われわれ日本人にとってもぴったりとしないところがある。ただ、子たる人間と親たる神という関係を考える時、その物理的直接性というものがあるとすれば、母子のような近い濃密なものではなく、どちらかと言うと必須なのだかそうでないのかわからないような父子に近い、という感じは、わからないでもない。イエスも半ば無意識にユダヤ教の父権主義を踏襲してしまったのだと言えばそうかもしれないが、彼の意図したところは、神の新たな表現を打ち出すよりも、神との関係の親密さを強調することにあったのだろう。

 「われわれは皆神の子だ」「神の顔色を窺って恐れ惑う必要はない」――もちろんこれだけでも大変な言明だが、だからといってのほほんとしていればよいというものではない。イエスが「使命」として「この世にもたらそうとしていた」ものは、その先にある。

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