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【スピリチュアリズムの12の救い】(4)地獄や永遠の罰はない

2010-12-27 02:08:37 | 高森光季>スピリチュアリズムの12の救い

 おおかたの人たちは死後「浄土」のような世界へ行くと前回述べましたが、間違った考え、異常な執着、他者への悪意といったものを持ってしまった魂は、どうなるのでしょうか。
 そうした罪深い魂が、普通の人たちと同じような「常夏の国」へ行くとしたら、それは「公正」ではないでしょう。しかし、だからといって、「永遠に火で焼かれる地獄」に閉じ込められるわけではありません。

 マイヤーズ霊は次のように言います。
 《死後の最初の状態に地獄がないというのは普通の人の場合を言っているのである。異常に嫉妬深かったり利己的であったり、残忍であったり、人を騙すとかいう連中は幻想界に滞在中、地獄の苦しみを逃れるわけにはいかないかもしれない。彼らの歪んだ性情が自己の欲望の充足を妨げるのである。真の意味において人を愛するということのできない性格が霊的な引力を圧倒してしまう。彼らは他人の犠牲などはお構いなく自分たちだけが慰められ奉仕されるべきだという幻想の霧の中を空しく手探りで探しまわらなければならない。孤独の運命が彼らを待ち構えている。そのため彼らは永くこの状態にとどまっていず、地上に再生する手段を求める。》(『人間個性を超えて』第13章「地獄」)

 《残酷さは他の性的歪み以上に人間の性格に食い入った感情である。それは人の魂に刻印し、他のどのような悪徳よりも深く傷つける。愛情への渇仰を他人を傷つけるという激しい望みに変えてしまった残酷な人間は、当然のことながら現世ではその欲望を充分に果たすことができない。彼は地上生活のすべてをそこに傾注する結果、それが彼の魂の一部となってしまったのである。
 しかし新しい生活の中では、ある期間、生きているものに苦痛を与える力のない時期がある。このことは次第に精神力を増大しつつある彼にとっては大変な悲嘆の種である。彼は自己の欲望を貪る相手を求め続けるが、誰も見つからない。この求めて満たされざる欠乏状態はほとんど精神的な性格のものであると言ってもよかろう。このばかげた地上の欲求が満たされないでいる魂にとって、光や美の世界などというものが何の役に立つであろうか。彼にとってはこの精神的地獄から逃れるすべはただ一つだけである。そこから逃れる道を自ら発見し、その冷酷な魂に現実の変化が訪れるまでは、彼は自らを取り巻く暗黒の中に留まり続けなくてはならないであろう。》(『不滅への道』第3章「幻想界」)

 インペレーター霊はもっと厳しい表現をしています。
 《絶え間なく悪を求め、善を拒絶していくことは必然的に純粋なるもの善なるものへの嫌悪感を育み、邪悪なるものを求めさせることになる。こうした性癖の霊は、普通、獣欲に支配された肉体に宿ることが多い。成長とともに獣欲の誘惑に負け、挙句の果てにその奴隷となる。高尚なるものへの憧憬も、神への崇拝心も、聖なるものへの望みもすべて消え失せ、霊に代わりて肉体が完全に支配し、己の思うがままに行動し、道徳的規範も知的判断力も持ち合わせぬ。かくして魂は邪臭ふんぷんたる雰囲気に包まれていく。ここに至る者は危険この上なき状態にあると言わねばならぬ。もはや背後霊は恐怖におののきてその場を逃れる。その雰囲気に息が詰まるのである。すると代わって別の霊たちが群がり寄る。かつて地上で同じ悪癖に身を亡ぼした者たちである。彼らは今一度官能の快楽を味わい、その人間を罪深き生活へと追い込んでは快哉を叫ぶ。こうした肉体的罪悪を再び繰り返さんとする性向は自然の法則を意識的に犯せる報いの中でも取りわけ恐ろしきものの一つである。彼は遂に肉体的快楽の味の虜になり果ててしまった。そして見よ! その肉体が滅んでも彼は相変わらずかつての快楽を求めて、行きつけの店をうろつきまわる。そうして、そこに屯(たむろ)する同類の飲んだくれに憑依して再び酒色に耽る。》(『霊訓』3節)

 こうした恐ろしい状況は、神や霊が裁判をして、判決を下し、定まった場所に収容する、というものではありません。魂自らが創り出すものであり、つまり自らの誤った欲望によって自らを苦しめるということです。
 そして、魂が過ちに気づき、光を求めるようになれば、更正への道が始まります。

 《ときたま、その内省的な地獄の経験によって真の愛が生まれることがある。すると地獄はまるで招喚を受けでもしたかのように消え去り、この帰幽者たちの広大な王国で彼らは近親者や気のあった人たちと再会する。》(『人間個性を超えて』第13章「地獄」)

 《残酷者の死後における物語は一冊の本にもなりえようが、今の私にそれを語ることは許されていない。私はただ、彼の魂と心は、その犠牲者たちの苦悩との一体化を通して浄められてゆくものであると付け加えうるのみである。》(『不滅への道』第3章「幻想界」)

 《こうした境涯の霊たちの更生は、神の救済団による必死の働きかけにより、魂の奥に善への欲求が芽生えるのを待つほかはない。首尾よくその欲求の芽生えた時が更生への第一歩である。その時より神聖にして気高き波長に感応するようになり、救済団による手厚き看護を受けることになる。……かくして聖なるものへの欲求が鼓舞され、霊性が純化されていく。》(『霊訓』3節)

 「永遠の地獄」といったものはありません。魂は、それぞれの思いにふさわしい世界に行くだけです。魂が歪んでしまい、「神の法」を外れていれば、魂は苦しみを味わいますが、気づきが訪れ、「神の法」に従うようになれば、苦しみからは解放されます。そして多くの場合、また地上に生まれ変わり、学びと成長の道を歩みます。

 ちょっとした過ちを咎め、罪の宣告をし、永遠に苦しめるような神は存在しません。それは人間の残酷さを投影した幻です。神はすべての魂の前に、成長の道を用意しています。その道をはずれれば苦しみがあり、苦しみによって道をはずれたことに気づき、再び道に戻る、それだけのことです。
 だから、「○○を信じないと厳しい裁きに遭う」「○○という行為をしないと地獄へ行く」といった偽宗教の脅しを気に掛ける必要はありません。そんなことを言う人たちこそ、偏狭な考えに囚われた魂であり、死んだ後もその考えに縛りつけられ、長く苦悩することになるでしょう。


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18 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
高森さんへ (アラム)
2011-01-18 00:31:54
高森さん、一方的に個人的見解を述べてしまい申し訳ありませんでした。

失礼いたしました。
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地獄関連の追加的メモ (高森光季)
2011-01-14 04:20:37
「地獄」問題関連で、少し追加しておかなければと思った点をメモとして。

・仏教で「地獄」は「六道」の一であるのなら、そこも「輪廻」のプロセスであって、理論的には「永遠のもの」ではないことになる。魂は六道輪廻の一つとして地獄へ生まれ、また死ぬと別のところへ行く。――ということなのだろうか。六道輪廻がどこまで仏教教理として遡れるのか、厳密な理論化がなされていたのか、正規な教理とされていたのか、といった点がよくわからないので、もう少し調べてみないといけない。
(真言坊主様、ご覧になっていたら教えてください。)

・苦しい状態にいる霊を「救う」という宗教的営為は、日本の土着的宗教(神仏習合、民間信仰、密教)にも、あまり体系的ではないが見いだせる。たとえば中国地方に伝わる浄土神楽や荒神神楽などでは、死者の霊を導いたり慰撫したりし、「救霊」を行なう。いわゆる鎮魂、浄霊、教導である。仏教、特に密教でもこうした儀礼は多彩なものがある(地獄にいる母親を救いに行った目蓮の神話――お盆の起源となったもの――は中国のもの?)さらに、広く地球上の諸地域に見られる「シャーマニズム」でも、迷った霊、暴れる霊の鎮撫救済という儀式はきわめて多く見られる。「死霊が迷って祟るのをどう防ぐか」はきわめて古くから人間の重大な関心事であった。
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再びアラム様へ (高森光季)
2011-01-14 03:03:42
「先生」はやめてください(笑い)。

どうもアラムさんの議論の立て方は私にはよくわからないところがあって、何を反論されているのでしょうか。「地獄はない」という言い方がおかしいということですか。カルデックやオーウェンやワードの記述に言及しないのはけしからん、ということでしょうか。
これは一般的な通念として言われているようなものはない、という意味で言っているわけで、それに比せられるような境域はあると捉えていますし、そう説明したつもりです。
「宗教が言ってきたような固定的な、残酷な場所などないよ」ということで「地獄はない」と言うことは、間違いではないし、意味があると思っています。私はたぶん、「そんなことしてると地獄へ行くよ」と人に言うことは決してないでしょう。私は今のところ、罪やカルマや地獄については、人間が語るものではない、と思っています。
霊的事象のネガティブな面にはあまり触れないという姿勢も、私は意味があると思っています。「こういうものがあるのになぜ言及しない」と言われても、それはまたしかるべき情況で、と言うことも可能だと思っています。
それに対して違う立場はあるでしょうし、それを否定するつもりはありません。どちらかが正しい、というようなものではないでしょう。たとえば私はある有名なスピリチュアリズムのサイトで述べられている論調に違和感を感じますが、それを言い立てるつもりはありません。そういう表現がふさわしい人もいるだろうと思うからです。
で、アラムさんはたびたび、「私は違う考えを持っている」ということを書かれてきたと思いますが、それをコメントとして書かれても、こちらとしては、違いを言い立てるのはあまり生産的ではないのではと思いますし、さらには「うーん、ここはあなたの場所ではないんだけどなあ」(笑)と感じるわけです。
何か、ご自分の観点が絶対だと思っておられませんか?

正直なところ、ここでのアラムさんの人との関係の取り方、意見開陳の方法は、私個人には不快で、あまり関わりを持ちたくないと感じてしまいます。これはうまく言葉で表現できないのですが。
一つ言えば、私はアラムさんから挨拶を受けたことも、自己紹介を受けたこともありません。漠然とでもどういう方かわかりませんし、何らかの「共同性への含意」も感じられませんし持てません。それはしばしば書き込みをする立場として適当なことでしょうか。
また、ご自分の意見を展開したいのであれば、人の褌で相撲を取るのではなく、ご自分の場所を設けておやりになっていただきたいと思います。スピリチュアリズムを論じるサイトやブログが増えることは私はいいことだと思っていますので。

まあ、これは私の感じ方の問題もあるのかもしれず、いささかわがままな物言いとなってしまうのかもしれませんが、こういう関係性は私にはどうも苦痛ですので、これ以上のご参加をご遠慮いただけないでしょうか。お願いをいたします。

(「そんなんならコメント欄を閉じておいたらどうか」「承認制にしたらどうか」と言われる方もいらっしゃるでしょうが、またそれはそれで考えてみます。)
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高森先生へ (アラム)
2011-01-14 00:20:30
>執筆者やコメント者との対話でない、一方的な意見の開陳は歓迎しかねますので、ご留意いただけると幸いです。

了承しました。
しかし、「コメント」ではいけないということでしょうか。


>私は、シルバー・バーチも、ホワイト・イーグルも、インペレーター(ですら)も、「霊的問題のネガティブな部分はあまり出さないようにしている」ような姿勢を感じます。かなり明らかにそうしているように思えます。ただしもちろんこれは実証はできません

高級霊通信の多くにはその傾向は見られるように思います。

しかし、『ベールの彼方の生活』において「暗黒界」についての描写が見られること、ワードの『死後の世界』において「地獄のどん底」と思われるような境域の描写があることは留意しておくべきではないでしょうか。

高級霊の指導下での「地獄のような界層」につての報告もあり得るということです。

「人の犯した罪は神の摂理、因果の法則に任せるべきで、地上の人間は裁くべきではない」
「暗黒界層に落ち込むような人のためにも祈ってあげることができる」
こうしたこととの関わりにおいて暗黒界層についての報告もあるのではないでしょうか。

また、「自分と同じような境域に入らないように教訓をもたらすということによって過ちが償われる」という意義もあるように思われます。

『天国と地獄』にしても、真実の霊、聖ルイといった高級霊の指導・統制下に送られたものであり、アラン・カルデックの個人的な思いから「地獄にいるような霊」からの通信を発表したわけではないようですから。

「罪悪に伴う悔恨と自責の念の中でも最も強烈なものは、罪を働いた相手から自分に向けられる愛を自覚した時に湧き出るものである。
これぞ地獄の炎であり、それ以外の何ものでもない」
「神の業が愛の行為にあらざるものは無いと悟って悔恨した時こそ罪を犯した者に地獄の苦しみがふりかかり、それまでの苦しみは本格的なものでなかったことを知るのである」
(『ベールの彼方の生活(二)』 G・V・オーエン 著 近藤千雄 訳 潮文社 P30)

「比較的長期間――往々にして地上の年月にして何千年何万年にも亘って頑固に抵抗し続ける者がいないでもない。が、いかなる人間も永遠にその状態を続けうる者はいない。そこに父なる創造神が子らの内と外に設けた限界があり、一人として神より見離され永遠に戻れぬ羽目に陥らないようにとの慈悲があるのである」
(同 P34―P35)

「少なくとも個々の人間においては、抵抗力を使い果たした時に悪の要素が取り除かれ、あとは栄光より更に大いなる栄光へと進む輝かしき先輩霊のあとに続くに任せることになろう」
(同 P35)

「暗黒界についての報告」はこれを裏付けるものとしてなされたのではないでしょうか。

「永遠の地獄、永遠の罰というものはない。
人によっては地獄と言えるような経験をする者もある。しかし、いつでも救い・向上への道は開かれている」
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アラム様へ (高森光季)
2011-01-11 02:26:05
>暗黙の了解を感じさせるようなものがある霊信

私は、シルバー・バーチも、ホワイト・イーグルも、インペレーター(ですら)も、「霊的問題のネガティブな部分はあまり出さないようにしている」ような姿勢を感じます。かなり明らかにそうしているように思えます。ただしもちろんこれは実証はできません。同じ考えを持っている人は何人かいますが。
で、これは個人的な判断ですが、“顕教としての”スピリチュアリズムは、そういうものが望ましいと思っています。異論は全然認めますが。

それと、執筆者やコメント者との対話でない、一方的な意見の開陳は歓迎しかねますので、ご留意いただけると幸いです。
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Unknown (アラム)
2011-01-10 14:11:04
お答えありがとうございます。

明確に書いてあることではなく、暗黙の了解を感じさせるようなものがある霊信についておききしたかったのです。

マイヤーズが述べているということだけでしたら、一霊人の見解や状況に過ぎないかもしれません。

複数の霊信を総合して、そのような推測がなされているのかどうかをおききしたかったのです。

私は
「霊界より指導に当たる大軍の中にはありとあらゆる必要性に応じた霊が用意されている」
「人間にはその程度に応じた霊と相応しき情報とが提供される」
(『霊訓 <完訳・上>』 W・S・モーゼス 著 近藤千雄 訳 心の道場 P203)
「肉体を捨てた者も肉体に宿れる者と同様に、その発達程度はさまざまである。そこで地上の未熟なる人間には霊界のほぼ同程度の霊が当てがわれる。故にひと口にスピリチュアリズムの現象と言うも、程度と質とを異にする種々さまざまなものが演出されることになる」
(同 P204)
とあるように、スピリチュアリズムにおいては、未浄化の魂からの通信、救済された魂からの通信、魂救済にあたった霊人からの通信、浄化過程を経験した霊人からの通信、高級霊からの通信など様々なものが高級指導霊の監督下において送られていると考えています。

そして、それはそれぞれの役割分担のうえでなされていると考えています。

ですから、ある霊人が「今の私にそれを語ることが許されていない」と語っていても、それとは別の役割の霊人が語ることはあり得ると思います。

ブラジルでの救霊サークルなどでは、こうした「地獄」と言える暗黒界層の霊を呼び出し、光の世界へ導こうとしますから、数多くのこうした界層のことを語ったものがあるのかもしれません。

退行催眠では、単に語るというよりも実際に経験しているような生々しい感情や感覚があるようですので、それを監督しているガイドが、酷い暗黒界層にはつながらないようにしている可能性があると思います。
突然それに直面したらあまりにもつらすぎてクライアントの精神的な平衡が崩れてしまうような強烈な記憶の場合でもそうした危険を避けるようにガイドが力を貸すことがあるようですから。





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Unknown (高森光季)
2011-01-08 20:39:20
質問がありましたのでお答えだけしておきます。

>「あまり暗い死後世界については語らないという暗黙の了解がある」というのは、何の霊信に書いてあるのでしょうか?

どこかに書いてあり、明確なことだったら、「あるような気配もあります」という表現はしないでしょう。
返信する
地獄にあたる世界 (アラム)
2011-01-08 18:06:14
>アラン・カルディックの『天国と地獄』を読みましたが、私もこれは少し手厳しいように思います。これを読むと、善人とは思えない人は皆、地獄行きの可能性十分あると思いました。

>霊信は地上人に戒めや教訓を与えるのが目的で送られてくるのだとしたら、当然、悪という行為の報復を実際以上に厳しく語るのではないでしょうか。

霊界はその人の主観も影響している世界です。

当人が「魂の闇」に包まれていれば、それだけその世界は、恐るべき世界に感じられるでしょう。

「実際以上」と言っても、その通信してくる魂にとっては自らが経験した通りで、当人にとっては実際ということになるでしょう。

霊信は様々な目的を持って、様々な対象に応じて伝えられていますが、犯罪を犯す人、悪い行為をなす人に対しては、「悪い思い、悪い行為を行っていれば、その報いを受けるので、少しでも早く悔い改めてください。悪い行為をしないようにしましょう」ということを伝えてくるものがあってもおかしくはないと思います。

また、「この世を去った後、罪を犯した人はこのような報いを受けるので、この世の人はあまり悪人を裁かないようにしましょう」、「罪を犯した人、霊的な闇の中に沈んだ人達のために祈ってあげてください」という意味もあると思います。

肉体がないということは、精神的なことは、その喜びも苦しみもその何倍にも感じられるということです。

ですから、あくまでも、それを経験した人にとっての苦しみであり、喜びであるということになります。

同通・同調の法則によって、同じような心境の魂は同じように集まって、集合想念によってつくられた世界にいるということになります。

これは、同じ宗教を信じている人たちが集まって、その宗教における天国の中にいるということと同じでしょう。

目覚めた状態になれば、「幻想」であったとしても、その状態の中にあれば、それは現実に体験していることに間違いないでしょう。

しかし、多くの宗教とは異なり、それは「一時的なもの」に過ぎず、「永遠の地獄」ではないということです。

当人には「永遠」と感じられるかもしれませんが、その苦しみには必ず終りがあるということです。

「霊的暗黒のどん底の世界であっても、祈りによって、本人に正しいもの、光を求める気持ちが生まれて来たときに救いへの道は開かれる」、「悪の中、闇の中で苦しみ、学んだことによって、それは無駄となることなく、その後に活かされることになる」、「愛する人達の思いは暗黒界層にいる人に対して変わることがない」、「守護・指導する霊人たちは暗黒の中に落ちた魂たちを見守り、決して見捨てることがない」、「反省し、他のものへの悪行のその何倍もの善行によって、不幸にした人々のその何倍もの人々を幸せにする手助けをすることによって、その罪は償われる」、「救いはどこにでもある」、このようなことを伝えてくれています。

スピリチュアリズムでは、様々な霊人が様々な目的から霊信を伝えています。
「地獄」のことは、「地獄」を体験した者、「地獄」からの救出を経験したものにしか語れません。

マイヤーズは「地獄」を経験したことがないのでしょう。

「地獄」を経験し、そこから抜け出すことができた者こそ、他の同じような人々を助けるための大きな働きができるということです。

参考書としては、現在は入手できないでしょうが、『われらの住み家』フランシスコ・シャンディド・ザビエル 著 重栖度哉 訳 日伯心霊協会。
『ワードの「死後の世界」』 J・S・M・ワード 原著 桑原啓善 編著 でくのぼう出版、『死後の世界』 浅野和三郎 訳 潮文社 下編 「陸軍士官の地獄めぐり」。
『スピリットランド』 A・ファーニス 訳 岩大路邦夫 訳 が現在入手できませんので、『誰も書けなかった死後世界地図 Ⅲ』 コスモトゥーワン。
こうしたものがあります。

ある状態にある心境の人が集まっている界層が「暗黒界」、「地獄」と呼ばれるので、そこに留まっている人には、確かにある「一つの世界」として感じられるということでしょう。
そこに救出に向かう霊人たちもその世界に応じたものを身にまとい、その世界のものを触れたり、見たりできるようになるようです。

>「教育的配慮から」あまり暗い死後世界については語らないという暗黙の了解があるような気配もあります。

スピリチュアリズムでは、高級霊の指導の下に「地獄」についての霊信も伝えられているようです。

「あまり暗い死後世界については語らないという暗黙の了解がある」というのは、何の霊信に書いてあるのでしょうか?

「ここに落ちた者は、ここに落ちた者でなければ分からない苦しみを、人に伝えることはできない」(『ワードの「死後の世界」』 P140

「罪深い者が死んだ後に与えられる慈悲の福音を信じる方々は知っておられるでしょうか。良心が目覚めた者が味わう呵責というものがどんなものかということを?」(『スピリットランド』 P367)

当人にとってはその階層での苦しみはとても言葉では言い表せないもののようです。

ですから、「実際以上に厳しく」どころか、当人にとってはそれ以上の言葉では伝えられないもののようです。

しかし、スピリチュアリズムで伝えられる霊信にはその先があります。

「より高級で善なるものに対する憧憬および悪から遠ざかりたいと願う心のあり方が彼らを邪悪な業の前で弱くしたのである」
「彼らはこの弱さのゆえに無慈悲な暴力でもって敵を打ち破り傷つけることをためらい躊躇したのである」
「その結果、彼らは打ち倒され、負かされて邪悪な権力から失墜したのだが、そのことでより高次の世界へのドアが開かれることになったのである」(『スピリットランド』 P289)


「俺はこれから、他の霊魂たちと共に、冥府へ出動します。そこで、大戦のために国家を捧げた、兵士達の救済に当たります」(『ワードの「死後の世界」』 P211―P212)

「我輩がこの二年間に直接救済した霊魂の数はすでに百人を越えている」(『幽界行脚』 ワード 著 浅野和三郎 粕川章子 共訳 心霊科学研究会出版部 P87)

「都市に群がる人間や霊人たちに働きかけ彼らの心に、わたしがあの遥か下方に位置する暗黒の霊界で見てきたものを認識できるように印象づけるというものでした」

「彼らの感覚は眠っているので、自分の悪行に対する報いが未来には存在するのだ、という恐怖の感覚をわずかに呼び覚ますくらいでしょう。それでも利己的な楽しみだけに溺れている者たちの何人かでも、その道から引き離すことはできるかもしれません」(『スピリットランド』 P306)

「わたしの地上人生での想念が、すなわち疑念、猜疑心、不親切な思いや淫らな思いなど、わたしが自分で育てた下劣な想念が作りだしたものなのです。それが生命を持ち、実際に触れそうな感じで漂っていました」(『スピリットランド』 P324)

「今やわたしは、そのようなわたしの想念が作り出したものが成長し積み重ねられてできた亡霊たちと戦うことになったのです」(『スピリットランド』 P325)

「地獄の王国での路程を通して獲得した君の能力の価値を知るように。その力をもって君は大いなる精兵となって日夜、地獄の住人の攻撃から地上人を守るようになるのである」(『スピリットランド』 P355)

「彼らは地上人であっただけではなく、彼らのうちの多くは悪徳に満ちた生活をしてきたので、そのために君も見てきたあの地獄の霊界に落ち込んでいた者たちであった。しかし彼らが深い悔い改めをなし、偉大な償いの仕事を多くなすことにより、また自らの低劣な欲情を完全に支配することで、彼らは光の軍隊の指揮者となったのである」(『スピリットランド』 P360)

こうして地獄から救われ、そこで得た経験と力を活かして、貢献を果たすことが語られているのです。

だからこそ、次のメッセージが届けられます。
「君たちが学んだように、そう信じているのだが、どんなに魂の修行の期間が長くなるとしても、悪用した魂の力から解放されるのにどんなに多くの時間を必要としようとも、全てのものには誰にも奪うことのできない希望が与えられているのである。
 また各自には必ず、最後に覚醒のときが訪れるのである」
「最も低い深みに落ちた者も、やがては上昇するようになるのである」
「全てのものに慈悲と赦しは備えられているし、希望と愛は確保されている」
「不死の魂の精髄は、そのわずか一粒でさえ失われることはないし、完全に消滅したり永遠に悲惨な状態に置かれるようなことはない」
(『スピリットランド』 P293―P295)

「君たちが見たこの地獄において、自分の身に起こることは全て、その人自身の邪悪な人生の結果であり、地上であれ、この霊界内であれ、過去の行為の作品なのである。したがってここには、その状況がどんなにひどいものであっても魂自身が作り出したもの以外は何も存在していない」(『スピリットランド』 P295)

裁くものも、罰するものもなく、全ては自分自身の創造したものこそが「地獄」であるということです。
それは「天国」を作っているものと同じであるということです。

この「地獄からの救いの道程」は他の宗教では欠落している部分と思われます。

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ken様へ (高森光季)
2011-01-07 21:59:24
>ただ、一世紀程の短い期間にたくさんの有力な霊信が集中して送られたということは、人類に対し、何としても諭したい強いものがあったのでしょうね。

おっしゃる通りだと思います。
でもせっかくのものを人類は活かせていない?……
返信する
ありがとうございます (ken)
2011-01-07 21:40:15
詳しく資料ご引用、ご見解ありがとうございます。いろいろ参考に致します。
確かにこれは個人の考えに拠るしかない問題です。

ただ、一世紀程の短い期間にたくさんの有力な霊信が集中して送られたということは、人類に対し、何としても諭したい強いものがあったのでしょうね。





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Unknown (高森光季)
2011-01-07 17:45:41
 「霊信は教育的配慮から悪への応報を厳しく語る」というのは、可能性はありますけれども、何とも言えません。逆に「教育的配慮から」あまり暗い死後世界については語らないという暗黙の了解があるような気配もあります。
 《残酷者の死後における物語は一冊の本にもなりえようが、今の私にそれを語ることは許されていない。私はただ、彼の魂と心は、その犠牲者たちの苦悩との一体化を通して浄められてゆくものであると付け加えうるのみである。》(『不滅への道』第3章)
 この「苦悩との一体化」はかなり厳しいプロセスでしょう。しかしマイヤーズ霊はそれを語ることは「許されていない」と言っているのです。

 逆に、前世療法家やそのクライアントが「不快な中間生」を半ば無意識的に排除している可能性も、まったく排除できるわけでもないでしょう。
 たとえば、臨死体験においては、幸福な体験が多く語られる一方、ネガティブな体験の報告もあります。
 《「臨死体験」は、「光」との遭遇、安心感、蘇生後の人格の善化、などと楽園的に記述されることが多いが、地獄的な要素を強調する作業も、例外的ながら存在する。ムーディ自身も『かいまみた死後の世界』の続編で、自殺者の臨死体験が「罰がともなう」ことを追記している(ムーディ『続・かいまみた死後の世界』63-68頁)。そのような中でも、自らを「臨死体験者」にして「女性の臨死研究者」と位置づけるフィリス・アトウォーターの『光の彼方へ』は、フェミニスト臨死研究というべき論争的なスタイルをもって、闇の体験を綴っている(アトウォーター『光の彼方へ』270-271頁)。アトウォーターが自説の根拠として示す数字をいくつかみると、三〇〇〇回以上の臨死体験者とのセッションのうち、「七〇〇人」にしぼってインテンシヴな聞き取りを行なったところ、そのうち「一〇五人」が「不愉快な臨死体験をしたと証言」したという。一~二割という数字は少数派に属するが、無視できる割合ではない。(中略)
 もちろん、男性研究者にも、「あらゆる死の経験が良いものばかりではない」と強調するものがある。たとえばモーリス・ローリングズ『死の扉の彼方』がそれで、自ら処置を施した蘇生直後の患者の「わたし、地獄にいる!」という悲鳴に触発されて臨死研究に入ったローリングは、死後間もない時点で証言をとることの重要性を主張した。悪い経験は短期間に深く抑圧されて、多幸的な経験ばかりが残るという理由からである。そして、キューブラー=ロスやムーディという先駆者については、「蘇生直後に治療現場でのインタビュー機会には恵まれていない」という、重要な指摘をしている。》(津城寛文『〈霊〉の探究』第3章)

 『ヴェールの彼方の生活』第3巻第8章「暗黒界の探訪」や、ブラジルのスピリティスムの書物に記される地獄様の世界は、果たして「教育的配慮から悪への処罰を厳しく」語ったものかというと、それもまた無理なような気もします。

 結局、現在のところ、私には「わかりません。それぞれお考えください」としか言えません。
返信する
もう少し考えてみました (ken)
2011-01-07 14:03:32
 先日の話題になっていた、アラン・カルディックの『天国と地獄』を読みましたが、私もこれは少し手厳しいように思います。これを読むと、善人とは思えない人は皆、地獄行きの可能性十分あると思いました。

 また、退行催眠の本の地獄に関する箇所も、マイケル・ニュートン以外のものも読んでみました。ブライアン・ワイス氏、グレン・ウィリストン氏、奥山輝実氏など、数多くの経験を積んだ、複数の研究者が発表していますが、概してどれも「地獄に当たる世界」は霊信の内容のような恐ろしいものではありません。また退行催眠においては、被験者の語ったことがいくつも史実と符合していたり、近親者がいくつも過去世で近親者同士だったという報告がありますし、そうした研究報告が真実なら、退行催眠は信憑性の高いものといえましょう。

 ここで思うのですが、霊信は地上人に戒めや教訓を与えるのが目的で送られてくるのだとしたら、当然、悪という行為の報復を実際以上に厳しく語るのではないでしょうか。
 よって「地獄にあたる世界」については、退行催眠の研究者の語るものの方が、当てになるのではないでしょうか。
返信する
平仄が合ってきました (JIJIRO)
2011-01-06 19:55:06
高森様のおっしゃることで、シルバー・バーチがくどいほど、自分で蒔いた種は自分で刈り取るということを主要な摂理として強調していることの意味がわかってきた気がします。

それと同時に、シルバー・バーチが、取り越し苦労をやめることや自分で解決できない問題が決して起こらないことを、これも何度も訴えていることにも思い当たらされますね。

私自身、迫り来る不安感や苦しみでどうしようもなくなった時などに、彼の霊訓の中の
「そこでわたしは、取り越し苦労はおやめなさいと、くり返し申し上げることになるのです。自分の力で解決できないほどの問題に直面させられることは決してありません。克服できない困難というものは絶対に生じません。重すぎて背負えないほどの荷物は決して与えられません。しかも、あふれんばかりの自信に満ちた雰囲気の中で生きていれば、霊界から援助し、導き、支えてくれる、あらゆる力を引き寄せることができるのです。」

という箇所を何十辺読み返したことでしょうか。
できれば死を考えるほどの苦しみに直面している人たちには、こういった霊的真理の存在を知っていただきたいものだと痛切に感じます。

とまれ、自殺者の件に関しては少しずつ確信が芽生えてまいりました。後は当時の文化や時代背景といったものも考慮に入れなければならないのでしょうね。
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JIJIRO様へ (高森光季)
2011-01-06 18:12:43
基本的にはおっしゃる通りだと思います。

ただ、死後存続を説くと、安易にリセットを求める輩がいる。それは「もったいない」では済まされないぞ、と言わなくてはいけない。
一方には「自殺者は重罪人」とする宗教ドグマもある。これはこれで残酷で、残った関係者を苦しめる。それは違うよ、と正す必要がある。

この二つの極論を排するために、どうしてもちょっとわかりにくい言い方になってしまうわけですね。
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単純過ぎるかな (JIJIRO)
2011-01-06 12:50:25
この地上での生活の大きな目的が、その人(というか魂)の成長にあることは、いろいろな信頼できる霊訓に述べられている通りだと思います。

で、その成長が地上での苦しみや困難に前向きな姿勢でたちむかっていくことでなされる(もちろん他にもいろいろな手段はあるのでしょうが)というのであれば、自分で「死」を選ぶ行為自体がせっかくの成長の機会を見逃してしまうという意味に於いて、霊的に観ればとてももったいないことだと高級な霊の目にはうつる・・とはいえないでしょうか。
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わかりやすいご説明ありがとうございます。 (ken)
2011-01-04 15:12:14
わかりやすいご説明いただきありがとうございます。仰るとおり大筋で捉えたいと思います。

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Unknown (高森光季)
2011-01-03 21:10:08
とても難しい問題ですね。
「自殺者は地獄へ行く」という命題も、「自殺しても死後の運命に影響はない」という命題も、共に間違いでしょう。
そもそも死後魂がどういう境域に行くかということは簡単に論じられないものですが、それは自殺者も同じで、どのような情況にあったのか、どのような思いや動機を持っていたのか、どこまでが魂の責任だったのか、など、様々な要素によって、死後の命運は異なるでしょう。
過剰な自己中心性や妬み・ひねくれ、怯懦、などを抱いて自殺した場合は、やはり死後もそれに囚われ続ける苦悩があるでしょう。逆に、身体的な(脳の)欠陥とかの場合や、人(家族)の苦しみを軽減させるため、といった動機の場合は、責めは少ないこともあるでしょう。
端的に言えば、「われわれにはわからない」ということになるでしょうか。

シルバー・バーチもこうした問題には慎重に答えています。
Q:自殺者は死後どのような状態に置かれるか。
《それは一概には申し上げられません。それまで送ってきた地上人生によって異なるからです。開発された霊的資質によって違ってきます。魂の発達程度によって違ってきます。そして何よりも、その自殺の動機によって違ってきます。
キリスト教では自殺をすべて一つのカテゴリーに入れて罪であるとしておりますが、そういうものではありません。地上生活を自分で勝手に終わらせる権利は誰にもありませんが、自殺に至る事情に酌量すべき要素や環境条件がいろいろとあるものです。
いずれにせよ自殺行為が為にならないことだけは間違いありません。地上生活を勝手に終わらせることが魂にプラスになったということは絶対にありません。が、だからといって、自殺した者がみんな暗黒界の暗闇の中に永遠に閉じ込められるわけではないと申し上げているのです。
また、自殺行為は、もちろん霊的進歩の妨げになります。》(霊訓9、207-9頁)

なお、「地獄」といった固定した場所はない、というのが霊信に共通した意見だと思います。悪に染まった魂が集まる「地獄のような境域」はあるようですが。

療法家のもとには一定の傾向を持ったクライアントが集まる場合もありますから、一人の療法家の意見に全面的に信を置くことは危険だと思います。(特に、何度も自殺した人のケースなどは、少し特殊なものかもしれません。)
また霊信もその霊の個性による表現の偏りがありますし、霊媒による「誤訳」もあるでしょうから、絶対化することはよくないでしょう。
霊信の間でも、また研究者によっても、食い違いはいろいろとありますが、「どれが正しい」とはなかなか言えないでしょう。総合的に判断して「このあたりが妥当な考え方だろう」と幅を持って考えるのがよろしいかと思っています。
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自殺者も地獄行きではないのでしょうか (ken)
2011-01-03 13:50:27
 霊信では、自殺者は地獄(のような)状況に陥るといいますが、退行催眠によると過去世が自殺者だった人は、過酷な地獄状態に陥ることはほとんどないようです。とくにマイケル・ニュートンの研究では地獄はないと書かれてました。
 こうした食い違いがありますが、霊信と退行催眠の学問的研究のどちらが正しいと思われますか?
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