スピリチュアリズム・ブログ

東京スピリチュアリズム・ラボラトリー会員によるブログ

【「私」という超難題】(10) 私を豊かにする

2012-08-17 01:50:52 | 高森光季>「私」という超難題

 私を豊かにしたい――こんな思いを持ったことのある人がどのくらいいるのか、よくわかりません。
 「強くなりたい」「有名になりたい」「たくさん所有したい」と思う人は多いでしょうけれども。
 豊かってどういうことだよ? と言う人もいるかもしれません。それおいしいの?
 一般には趣味が多彩だとか、知識が豊富だとかいう人が、豊かと見なされる人なのかもしれません。
 でも、豊かさというのは、魂という見地からすると、「経験」の多さということのようです。

 マイヤーズ通信には、「類魂の経験を共有する」という表現が随所に出てきます。
 たとえば、魂は成長のために生まれ変わりをするわけですが、ある程度の進化を遂げた魂は、その代わりに類魂の経験を共有することで成長を果たすこともできると言っています(『人間個性を超えて』第四章)。
 また、高次の霊界になればなるほど、類魂の体験の共有がより深まっていくとしています。《(5)〈純粋火焔界〉。この状態では魂は、永遠の絨毯の中に自己の本霊(spirit)が織りなしつつある図柄に気づき、同じ霊の中に養われている同類の魂たちの感情生活を知悉する。(6)〈純粋光明界〉。ここでは魂が同じ類魂(group-soul)内の前世にあたるすべての魂たちについて知的に把握する。さらには、世界魂ないし地球魂(the world or earth soul)がその身体のうちで経験するすべての感情生活に通暁する。》(『不滅への道』第二章)

 魂は、感情的体験、知的体験を積むことで成長する。新しい魂は自ら直接経験することが必要だが、ある程度の成長を経た魂は、同じグループに属する他の魂の経験を自らのものにすることでさらに成長することができる。
 この経験は具体的な事柄の問題ではありません。もう少し抽象的な、感情的、知的経験のことです。
 愛し合う経験、愛する者を喪う経験、世俗的に成功する経験、失敗する経験、理不尽に殺される経験、さらには憎悪とともに人を殺す経験……
 そういった人間の多種多様な経験があり、それに伴う感情や知(知的理解)がある。それらはそれぞれに組み合わせや布置が異なるから、無限の種類があるでしょう。
 そういう経験を魂に刻むことで、魂はより大きな想像力・創造力を持つようになる。それが成長ということだ、と。

      *      *      *

 悪事、罪の体験すらも必要なのか――
 これは難しいですね。もちろん、悪事・罪をしたら償いをしなければならない。その地上生活中でできなければ、次生まで持ち越す。それは遠回りで、つらい道です。だからない方がいい。
 けれども、じゃあ全部の魂が、悪や罪に染まらず成長していけるかというと、そうではない。どうも世界はそう創られていない。
 もしかすると、悪や罪を自ら体験して、それを踏み越えて成長した魂の方が、深み・豊かさがある、ということもあるのかもしれない。どの巻だったか忘れましたが、『ヴェールの彼方の生活』の中に、同じレベルに達した魂が二人いて、一人は悪や罪に染まることなく進んできた。もう一人はかつてそれを犯したことがあった。二人が出会ったその時、悪や罪を犯さなかった魂が、それらを犯したことのある相手に対して「本来持つべきものではないが、かすかな羨望のようなもの」を感じたという場面があります。
 また、神様は、自分の近くにいて立派な仕事をしていた長男より、放蕩三昧をしてすってんてんになって帰ってきた次男の方を喜ぶという「放蕩息子の帰郷の物語」もあります。
 まあ、こうしたことはあまり人間がうんぬんすべきことではないのでしょう。悪や罪は犯さない方がいい。それが大前提です。
 ただ、悪や罪への理解力は持つ必要がある。悪人・罪人の心情も理解できることが豊かさである。まあ、想像力や類魂の体験の共感でそれを補えれば、その方がいい、というところでしょうか。

      *      *      *

 様々な感情的・知的体験をすることが成長につながるのなら、世俗を拒否し、孤独に隠遁し、禁欲修行に励むことは、よくないことなのか。

 マイヤーズ通信は、仏陀とイエスの教えを比較して、現世生活や欲望や人間性を排除する仏陀の教えよりも、それを肯定するイエスの教えの方が優れていると論じています(『人間個性を超えて』第14章「正しい愛の道」http://www.k5.dion.ne.jp/~spiritlb/ume-9-4.html)。
 ただし、それが絶対だとは言っていない。隠遁禁欲の道を選ぶ魂もあると。
 マイヤーズ霊は、一般的な霊信を送ってくる霊がいる世界(幻想界)を卒業し、次の境域(形相界)に進んでいると言っており、確かにその通信内容の質から見ても、それを疑う必要はないと思います。ただ、いくら高級霊と言っても、その言っていることが絶対だとは言えない。高級霊といえども個人的存在ですから、「ある視点から見た」という偏りはあるでしょう。属する「霊統」というもののあるかもしれません。

 だから、隠遁の禁欲修行者が、間違っているとは言えない。ある成長過程では必要なのかもしれませんし、ある霊統に属する魂にはごくまっとうなプロセスなのかもしれない。もしかすると、もうこの世を卒業する魂がすべきことなのかもしれない。
 要するにいい悪いは簡単に言えないわけです。
 でも、そういう霊統は多くないだろうし、そのレベルに達した魂もそういるわけではない。多くの魂には、引き籠もって「未来永劫のことを考え詰める」よりは、波乱の人生に船出して多くの経験を積むことが、まあ順当な道だろうということは言えそうです。

      *      *      *

 この地上生活で、多くの感情的・知的体験を積むためには、二つの道がありそうです。
 一つは、多くの人と交わって、その話を聞き、共感すること。
 もう一つは、文学を読むこと。

 第一の道はなかなかハードです。人と交わることはできても、その内面の話を聞き、共感できるというのは、並大抵のことではない。そういう職業――医者・教師・カウンセラーなど――を選んで生まれてきて、見事にそれをこなしている人がいますが、その人たちは立派な修行をされている優れた魂なのでしょう。敬礼。

 第二の道は、わりあい誰でもできそう。
 文学を読むということは、人の魂の体験をなにがしか追体験することでしょう。別にそれが私小説や自伝でなくても、そこには様々な感情的・知的体験が詰まっていると思います。一首の和歌にすら、壮大な感情的・知的体験を読み取ることができる場合もある。
 しかしこの頃、文学は凋落気味ですね。映画や漫画に押され、文学の中でもミステリーやライトノベルが押してきている。
 ミステリーやライトノベルは、筋立てやちょっとしたセンスで楽しみを提供するものが多くて、そこにどれだけ「感情的・知的体験」がこめられているのか、やや疑問に思うところもあります。どうなんでしょうか。
 文学が凋落したのにはどういう背景があるのかは、これまた大変な話題ですからやめますけれども、自己を豊かにしていく盛りの若い人たちが、文学をあまり読まなくなったのは、なんかとてももったいないような気がします。ま、ジジイの繰り言かもしれませんが。文学に代わって映画や漫画がその役目を果たしているのかもしれませんが、そのあたりはよくわかりません。

 もちろん、文学だけではなく、絵画や音楽、芸能だって、「感情的・知的体験」を豊かにしてくれるものはたくさんあるでしょう。歴史を勉強することも、過去の時代に生きた人たちの「感情的・知的体験」を共有することになるかもしれません。

 閉じ籠もらず、視野狭窄せず、様々な感情的・知的体験を(たとえ疑似体験でも)重ねていくこと。それが「永遠の成長」につながっていくことのようです。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿