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【「私」という超難題】(11) 「コギト」とモーリス・ブランショ

2012-08-18 00:10:24 | 高森光季>「私」という超難題

 何というタイトルでしょう!(笑い)

 周知のように、フランスの哲学者デカルト(1596-1650)は、「どうやっても疑えないもの」として、「そういうことをあれこれ考えている私」を主張しました。
 「cogito ergo sum(コギト・エルゴ・スム)=我思う、ゆえに我あり」

 ところが、これを「思考している私が存在する」「思考しているものこそが私だ」と捉えると、あやしくなる。

 真剣に何かを考え続けたことのある人ならわかると思うのですが、実は本当に考えている間、私はいなくなっている。
 一心にある哲学的命題を検討している時とか、科学的検証をしている時とか、プログラムを書いている時とか、宣伝パンフレットを作成している時とか、まあ何でもいいのですが、そういう時、「私」は思考そのものになっていて、「私」であることをやめている。空腹も眠気も感じない。普段あれこれ考えていることも消え去っている。時にはそれがお金になるかどうかとか、自分や人類全体にとって善いことか悪いことかということすら、考えない。(「考え事に熱中して自分がおろそかになる」というような表現は日本語でもありますね。)
 「思考そのものの中に溶け込むことで、私は死んでいる」とも言える。

 で、フランスの文学者モーリス・ブランショは、
 「Je pense donc je ne suis pas=我思う、ゆえに我なし」
と言った。思っている時、私は存在しない、と。

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 ブランショ(1907-2003)という人は、文学作品を「死の空間」と表現した人です。
 作品を読んでいる時、そこには、思念、イメージ、感情、直観に近い感覚などの「想像的なもの imaginaires」の運動が発生する。読んでいる「私」はその中に没入し、「死ぬ」ことになる。私はいなくなり、作品の運動そのものが運動している。これは「私」にとって「死の空間」だ、と。
 屁理屈をこねくりまわしているようにも見えますけれども、これ、けっこう本質を衝いていると思います。
 よい小説を読んでいる時、よい映画を観ている時、よい音楽を聞いている時、よい絵画の前に佇んだ時、「私」は消滅します。実際のところ、借金取りに追われていても、締め切りが迫っていても(なんという比喩だ)、その間はそういうことを一切忘れています。「私」は純粋な「作品が運動する場」となっているわけです。

 ブランショという人は、いろいろと意表を突くことを言ったり、難解かつ独特な魅力を持つ文章で人を煙に巻いたり、となかなか面白い作家です。小説作品も、上記の「死の空間」そのものを表現しようとしたような、筋のない、不思議な作品を書いています。『期待・忘却』などを読んでいると、なんというか、摩訶不思議奇妙奇天烈な空間に「死ぬ」ことができます(笑い)。
 盟友に、『エロチシズム』『内的体験』などを書いたジョルジュ・バタイユ(1897-1962)がいて、この人もやはり「私」をめぐっての思想的格闘をした人です。ここでは「エロスとは死である」というような命題が出てきます。これもなかなか深い。
 ちなみに実存主義で有名なサルトルは1905年生まれでまあ同世代。戦後フランスでは、こういった「私」の(どちらかというと否定的な)探究が盛んだったわけです。

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 そうなると、「私とはイメージや思念や感情やらが乱舞する一つの“場”に過ぎないのか」という問いが出てきます。詩人マラルメが言った「私たちは空しい物質の反映に過ぎないのか」という問いに似ていますね。そして、この延長には「人間というものは様々な構造の出会う結節点に過ぎない」という構造主義の考え方があるような感じもします。さらには、「私というのは脳の電気信号を拙劣にモニターしているだけのもの」とか、「私なんぞはしょせん脳から発生する湯気のようなもの」といった唯物論の考え方も連なる。ずいぶん乱暴な見方ですが。

 けれども、哲学的論議手続きをぶっ飛ばして言うなら、デカルトの「疑い得ぬもの」という設定は正しかったと思います。
 それは「考える私」が疑い得ないのではなく、考えたり感じたりしている私をさらに観ている私、あちゃこちゃ右往左往する私をいろいろな感懐を抱きながら観察している私、さらには「私とはなんだろう」「世界とはなんだろう」と問いかけている私。これが「疑い得ぬ私」ではないでしょうか。私たちが出発点とすべき大前提なのではないでしょうか。
 とすれば「我、我を観る、ゆえに我あり」か。(ラテン語で書いてカッコつけたいけどできねえw)

 瞑想をしていくと、こういう経験をします。最初は、日常的な私が落ちていきます。雑念、思い煩い、暑い寒い痒いなどを抱いた私(“神経魂”に近い部分)が、静まって消えて行く。非常に静かで心地よい状態です。そうするとその後に、内奥にあるイメージやら感情やらが湧き出てきます。これはなかなか感動的な体験ですが、これにとらわれ過ぎるとよろしくない。それが静まって、その後に、何とも言えない、「定点」のようなものが浮かび上がってくる。いろいろな感覚や思いや感情を抜けた、純粋な観察・感知主体としての「私」があり、それが感覚や認知を超えた何か大きなものと対している。声にならない声、言葉にならない言葉、色にならない色を受け取っている。そんな状態になります。(まあ達人の境地はさらに上にあるのでしょうが、私にはわかりません。)この、純粋な観察・感知主体としての私、私自身の動きをも対象として認知する私。しかも単なるモニターではなく、なにがしかの意志・力を持った私。それが、ただ“在る”と。
 「内なる魂の静けさ」「光の子」「永遠に生きる存在」が、そこにあるように思います。生きていることの荒波を貫いて存在している私、死をも超えて成長の道を歩み続ける私が。

 しかし、こういう「私」は死んでいる時も多い。睡眠中はもちろん、何かに没頭している時、思いや感情に呑み込まれている時、せわしなく外界に反応している時、こういう「私」は背後に去っていると言えるでしょう。
 中には、こういう「私」を持っていない人もいるかもしれない。いつも思いや感情に惑わされ、他人や物事に反応してああだこうだと乱れ、カオスのような場になっている私しか持たない人がいるのかもしれない。

 ん?……何かかなり根本的な問題に触れたような気がしますけれども、違うかな?


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