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【「私」という超難題】(3) 生まれ変わりとは何か――カルマの伝搬は生まれ変わりではない

2012-08-09 02:26:04 | 高森光季>「私」という超難題

 改めて、「生まれ変わりとは何だろうか」と問うてみます。
 バーチさんの言では、「んなこたぁお前らにわかるわきゃない」ということになるのかもしれませんが(笑い)、わからないままにわかる範囲で。

 「生まれ変わる」は動詞ですから、主語があります。そしてその主語は、私たちの関心から言えば、「私」です。私たちは、切実な問題として、「私は生まれ変わるのだろうか」という問いを持っています(持っていない人も多いでしょうが)。

 初期の米英系スピリチュアリズムでは生まれ変わりは否定されていましたが、カルデックのスピリティスムの影響やその後の探究から、次第に肯定派が多くなりました。そして、20世紀の「前世療法(前世退行催眠)」の研究で、それを裏づける多くの知見が集められました。
 前にも書きましたが、スピリチュアリズムや前世療法からの生まれ変わり論は、おおむね次のようなプロセスを描いています。
 魂は死後、中間的(移行的)な領域で直前生の回顧・反省をし、自分のレベルに合った霊界へ進む。そこで一定の活動をした後、指導霊との相談の上、いまだ解決(学習)できていない課題を解決(学習)するために、再び現世に生まれ変わる。前世の体験は、一定の浄化を経て、主要な記憶、思い・感情として保持され、次生への課題の一部として受け継がれていく。次生の私は意識としてはそれに気付くことはないものの、魂レベルではそれを自覚している。
 一応ストレートに「私の自己同一性」は保たれているわけです。ここにも様々な問題が生じますが、それは後ほど。

 いや、生まれ変わるのは「私」ではない、という主張もあります。
 仏教は、先行するインド宗教思想を受け継いで、生まれ変わりを前提として誕生しました。すでにいろいろ書いてきましたが、仏教の初期設定は、「どうすれば苦でしかない生の輪廻を超えられるか」というテーゼであったと思います。
 ところが、仏教はある時点から「無我」説を主張しだしました。お釈迦様ご本人がそうだったのかどうかははっきりしません。「今の私は真実の私ではない(非我説)」「輪廻の原因である無明は我に執着するということから生じる」とは言ったと思いますが、「我はない」とは言わなかったのではないかと私は思っています。
 「無我」は、仏教の初期設定である「輪廻」をぶち壊してしまいます。もともとは、「私は死んでも生まれ変わる、その永遠の繰り返しは苦である」というものだった初期設定が、「私はない」となると、ありゃ?! ということになります。
 じゃあ、何が輪廻するのか。
 単純に言えば、「カルマ」だと。人間が輪廻するのはない、カルマが受け継がれていくのだ、と。詩的に言えば、無明が無明のまま永遠に回転していくのだ、と。

      *      *      *

 つまり、説としては、「自己同一性を持った私が生まれ変わる」という説と、「私ではなくカルマ(や記憶)が生まれ変わる」とする説があることになります。
 しかし、カルマ(や記憶)の伝搬は、「生まれ変わり」と言えるのでしょうか。(ただしカルマの伝搬は霊的な事実としてはあるようです。それについては後述。)

 こうやって二極に極限化してしまうと事態は明白かもしれませんが、実際は、その中間に位置するような見解もあります。
 たとえば、一部の人々は、「私自身はどうなるかわからないが、私の記憶や思い・感情は残り、それは新たに生まれてくる誰かに受け継がれる」と考えているようです。
 これはどうなるでしょう。ここには、「私というものは、私の記憶や思い・感情なのか、それを超えたものなのか」という、大問題があぶり出されてくるのではないでしょうか。
 私の体験のすべてが精緻に構造化された統体というものがあったとして、それは私なのか。それが残ることが死後存続であり、それが別の人物に受け継がれることが生まれ変わりなのか。

 私はこれについて「NO」と考えます。
 カルマとか「私の体験の統体」が、死後も存続することは事実です。そしてそれらが他者に転移されることがあることも事実です。しかし、それは「死後存続」や「生まれ変わり」ではありません。死後存続や生まれ変わりは、あくまで、カルマや私の体験の統体を超えた、「私」の存続であり、再生です。
 逆に言えば、カルマや私の体験の統体しか死後存続しない、転生しない、という説は、死後存続説や再生説とは言えない。それは一種の機械論、霊的唯物論(!)ではないかと考えます。
 カルマ転生説、記憶永続説は、霊的領域(非物質領域)まで拡張された、唯物論(機械論)なのではないでしょうか。

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 一つの魂が作り上げたカルマ(一連の経験の統体、あるいは“鋳型”)が、他の新しい魂に受け継がれるということは、マイヤーズ通信でも報告されています。

 《わが類魂の中に加わろうとする新しい魂が、私が織り込んでおいた模様ないしカルマの中にしばしの間入り込む。私はここで「カルマ」という語をはなはだ漠然と用いている。というのも新しい魂が受けつぐのはカルマ以上のものであり、また以下のものである。》(『不滅への道』第六章)
 《初めて肉体を待った魂は、通常その類魂の或るメンバーと霊的に極めて近い関係にある。そして、その関係が近いほど古参の魂のカルマを引き受けることになる。そうした古参の魂は既に四、五回の地上生活を経験している。がしかし未だ充分には純化していず、霊的進化に必要なだけの地上経験をしていない。しかしながらこうした場合、二つの方法で必要な経験を獲得することができる。①類魂の記憶の中に入ることによって。②その魂のカルマ――何度かの地上生活によってつくり上げたパターン――を引き受けた若い魂と霊的な関係を保つことによって。こうして自らの創造の分身である類縁の魂に霊的に結びつき、この魂の地上の旅を見守ることによって自らの霊的生命を豊かにするのだということが分かるであろう。》(『人間個性を超えて』第四章)

 しかし、これはカルマの受け渡しでしかありません。渡した主体は、そこで新たな魂にもぐり込んだり同化したりするのでもなく、ましてや消滅するのでもありません。主体は主体として留まり続けます。
 つまり、カルマの伝搬は、死後存続や生まれ変わりとは別の領域の話なのです。

      *      *      *

 私というものは、カルマや経験の構造的統体を超えたものです。
 カルマや経験の構造的統体は私に所属するものですが、私そのものではありません。
 私の死後存続や生まれ変わりとは、カルマや経験の構造的統体の存続や伝搬のことではありません。私そのものが存続し、あるいは生まれ変わるということです。
 「そんな“私”なんてあるのか?」と問われるかもしれません。
 絶対的な答えと言うつもりもないし、これまでいろいろと紆余曲折してきた経緯もありますが、やはり私は「ある」という立場を採ります。
 それが何かをはっきりと定義することはできません。われわれの知性や思考を超えたものなのかもしれません。
 しかしそれはある。
 そして問題は、そういう「私」と、今ここにある私とは、どういう関係なのかを探ることだと思います。


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4 コメント

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脳というものを (JIJIRO)
2012-08-10 08:03:25
joe さん、初めまして。

脳の手術の最中に、うっかりとある部位にメスが触れた際に、その患者さんは自分もすっかり忘れていた幼い頃のある場面に、匂いから雰囲気までどっぷりと浸っていた、という話を聞いたことがあります。私の中ではそれが唯物的に思えて、長い間矛盾を感じていました。

ある日ヘミシンクをやっていた時に、私は何かに教えてもらいました。(このブログだから言えることですね(^^ゞ)
脳ってハードディスクじゃないんだ、チューナーなんだ。これで長年の疑問が氷解しました。joe さんのおっしゃるとおりだと思います。
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初めまして (joe)
2012-08-10 07:12:31
死後は自分の源に還り、データだけを取り出したりすることができるのかな?と思っています
自分の過去生の負の脱け殻でしょうか?魂の一部を見たこともありますよ
自分の源にアクセスすると、その時々の出来事がズラーっと言葉や映像みたいので出てきます
 
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Unknown (高森光季)
2012-08-10 00:41:53
JIJIRO様
いつもコメントやご紹介ありがとうございます。
こういう感覚を多くの人が持つようになったらいいですね。
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スピリチュアル・ワンネスということ (JIJIRO)
2012-08-09 14:11:27
 私は立花隆さんが「宇宙からの帰還」の中で、宇宙飛行士のミッチェルさんが宇宙船から地球を見た際に、自分の今まで抱いていた人生や神の存在などの疑問が瞬時に解けたことを書いてらっしゃいますが、その後の立花さんの「では、この肉体を持った個別的人間存在は何なのか。人は死ねばどうなるのか」という質問に対してミッチェルさんが以下のように答えられたのを読んで、とてもすっきりした記憶があります。

  人間というのは、自意識を持ったエゴと、普遍的霊的存在の結合体だ。前者に意識がとらわれていると、人間はちょっと上等にできた動物にすぎず、本質的には 肉と骨で構成されている物質ということになろう。そして、人間はあらゆる意味で有限で、宇宙に対しては無意味な存在ということになろう。しかし、エゴに閉じ込められていた自意識が開かれ、後者の存在を認識すれば、人間には無限のポテンシャルがあるということがわかる。人間は限界があると思っているから限界があるのであり、与えられた環境に従属せざるをえないと思っているから従属しているのである。スピリチュアルな本質を認識すれば、無限のポテンシャルを 現実化し、あらゆる環境与件を乗りこえていくことができる。
  人が死ぬとき、前者は疑いもなく死ぬ。消滅する。人間的エゴは死ぬのだ。しかし、後者は残り、そのもともとの出所である普遍的スピリットと合体する。神と 一体になるのだ。後者にとっては、肉体は一時的な住み処であったにすぎない。だから、死は一つの部屋から出て別の部屋に入っていくというくらいの意味しか ない。人間の本質は後者だから、人間は不滅なのだ。キリスト教で人が死んで永遠の生命に入るというのも、仏教で、死して涅槃に入るというのも、このことを意味しているのだろう。だから、私は死を全く恐れていない。

 高森さんが書いてらっしゃるテーマとは微妙にずれているかもしれませんが、スピリチュアル・ワンネスということに関しては私はこの本の中でミッチェルさんが述べられていることが、今までで一番納得がいきました。
 高森さんには釈迦に説法ですが、もしお読みでない方がいらっしゃったらお薦めいたします。
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