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【「私」という超難題】(4) 「私」を否定する傾向

2012-08-10 03:35:32 | 高森光季>「私」という超難題

 こうやって私、私、と言い立てていると、まあこういう反論が返ってくるものです。
 「そんなに私にとらわれるのは、固執であり、間違いのもとだよ」「私などというものは、そう大したものじゃないんじゃない?」「青臭いねえ(ニヤニヤ)」

 どうも東洋思想では、あまり「個人」ということを言い立てない傾向があります。
 仏教になると、「私こそ諸悪の根源」「私は実はないのにあると思うのが間違い」といったことまで言われます。
 日本思想も、やはり個人性を脱することに価値を見いだす傾向があるようです。死者霊は、向こうで幼子からだんだん成長して、60歳になると集合的な「祖霊」に融合する。そうすると、ようやくクニや人々を守る力を持つ。現実の生き方としても滅私奉公とか「武士道とは死ぬことと見つけたり」とか、個を主張しないことこそ美徳だという捉え方がある。日本農本思想では、私は大自然の一部であってその調和の中に生成消滅するのが本来だというようなメンタリティがある。粗雑な感想ですが、そんな感じがあります。
 私も日本人ですから、そういうメンタリティがないわけではありません。あんまり私が私がと主張するのは好きではありませんし、そういう人を煙たく思うこともあります。
 ただ、我を主張しないということと、「私はない」と捉えることは、かなり違うのではないでしょうか。私と全体の調和・融合というものも、家族とか共同体とかではなく、もっと広い視点で捉え直したほうがいいのではないでしょうか。

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 現代の支配的思想である唯物論でも、「私」というものは、独立・独自存在としては否定されます。
 唯物論では、生命行動は刺激-反応による自己防御システムと捉えるわけで、「私」は、私というヒト個体の中にあまたあるその「刺激-反応システム」の中心、あるいは統合的頂点に過ぎないとなる。コンピュータのCPUみたいなものでしょうか。違うかな。
 いや、もっとシニカルに、私というのは、非常に複雑にからまる生体の電気信号システムから立ち昇る湯気のようなものだと言うかもしれません(笑い)。
 いずれにせよ、「私」は「脳が作り出すもの」であって、脳が死ねば私は消滅する。人間の脳はかなり高度な構造を持っていて、そこで紡ぎ出される私も複雑ではあるけれども、それは他の脳を持った生物と質的に異なるものではない。(もっとも、一部の科学者は「宇宙の謎を解明する脳(つまりわれわれ優れた科学者の脳)は特別だあ!」と主張するかもしれません。)

 現代思想の一潮流である構造主義では、「私とは様々な構造が出会う結節点に過ぎない」ということも言っています。まあ、科学主義唯物論の類似思想とも言えます。ミシェル・フーコーは、「一刻も早く人間という観念がなくなることを願っている」といった過激な反人間主義思想を表明しています。フーコー大先生は人間として生きているつもりはまったくなかったのでしょう。彼の同性愛は、自分の選択ではなく、構造の結節点がたまたまそこにポイントを結んだということなのでしょう。

 現代の医学や心理学においても、唯物論の影響を受けて、人間は「遺伝+環境」だと捉える傾向があります。特に最近は何でも「ストレス」が原因で、不登校や引き籠もり、うつ病、肥満、犯罪、その他もろもろの病気や非正常行動は、ストレスが引き起こすというトンデモ説が優勢です。人を何十人殺したとしても、それはストレスのせいであって、当人の責任ではない――こういったすべての倫理や人間性を破壊する考え方さえあるわけです。私とは、有害物質と間違った生活・思考習慣とストレスとの総計である(笑い)。

 要するに、どこもかしこも「私」などはないという思想に満ちあふれているわけです。
 「私などというものはないのだよ」と智者のように言う人は、そこらじゅうにあふれている「私を否定する思想」にある意味加担していることになるのです。

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 奇妙ですねえ。せっかく神様から「個体意識」というものを授かっていながら、一所懸命それを否定しようとしている(笑い)。
 人間の個体意識は、素晴らしいものではないでしょうか。それは、自由意志を(ある程度)持ち、創造性を持ち、倫理性を持ち、超越性(真善美)への感覚を持ち、自己認識力や自己成長力を持つ。愛し、笑い、遊び、蕩尽し、苦悩する。(まあイルカとか犬猫もある程度はそういうものを持っているでしょうけれど。)

 V・E・フランクルはこんな言葉を残しています。(本が手元に見つからないので要旨)
 「ナチスの強制収容所の中で、私たちはすべての時間を生存するための苦悩に費やすことを余儀なくされていた。その中で私たちはどれほど憧れたことか。人間的な、精神的な苦悩というものに。」
 思わず襟を正したくなるような言葉です。生存の苦悩はみじめなものであるのに対し、人間的・精神的な苦悩は、願われるものですらあるのです。

 自由意志や創造性や倫理性や超越志向性等々は、刺激-反応の電気的システムや、諸構造の結節点から、出てくるものなのでしょうか。遺伝的プログラミングや環境からの学習だけで生じてくるものなのでしょうか。
 それらこそ、「私」があることの証であり、意義なのではないでしょうか。

 けれども、どういうわけか、人間はそういう宝物を、否定したがります。偶然だ、システムだ、刷り込みだ、幻想だ、と。
 ここには、おそらくとてつもなく大きな問題が隠されています。人間は、私は、実は途方もなく大きな宝物を持っているのに、一方で、必死になってそれを見ないようにする、否定しようとする志向も持っているようです。
 このことについては、また改めて述べることにします。

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 「神は自分に似せて人間を創造した」という旧約聖書の説は、1万分の1ほどの真実を語っているように思います。(ちなみに「人間は自分に似せて神を捏造した」という宗教批判は、実に正しいものでしょう。)
 神という言葉は語弊が多いのでやめにしても、「私」が自由意志や創造性や超越志向を持っているということは、「私」がなにがしか、物質やシステムやらを超越した、「大いなる何か」の片鱗を授けられていることだと言えないでしょうか。宗教者や高級霊が言うように、「私の中には絶対者のごく小さな火花が埋め込まれている」のではないでしょうか。
 私が抱えている我欲は、生物に必須の低次な欲求であり、物質的なもの、システム的なものかもしれません。しかし我欲を超えた「絶対者の小さな火花」としての私が、誰の身にもそなわっているのではないでしょうか。(仏教でも「仏性」論がありますね。最近ではこれは実体論だといって批判されることが多いですが、やっぱ正しいんじゃないかと思いますけど。)

 人間を、私を、絶対者にも比肩しうる永遠の実体だと言うのではありません。人間は、私は、限界のある卑小な存在に過ぎません。何かがあればすぐおかしくなったり死んだりする弱々しいものであり、現在の地球に60億もいる凡庸な存在です。
 そのくせ調子に乗るとすぐ増長する。自己本来の欲求と低級な我欲をごちゃまぜにして、傍若無人に振る舞い出す。「私はない」とか「我を捨てろ」といった呼び掛けが、その癖の悪い増長を抑えるためにはいい薬であることも確かだと思います。
 でも、宗教的・倫理的に深い表現は別にして、安易に「私はない」「私は物質やシステムの一部に過ぎない」と考えることは、この上なく悲劇的な自己否定のように思います。
 イエスの言葉をもじっていえば、「神なんぞ否定してもかまわない。宗教なんぞ糞喰らえでもいい。けれども、自分自身が物質を超えた霊的かつ主体的な存在であることを否定するのは、許されることはない」。


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